メリッサ

2009/04/04 久慈光樹








 彼――レオンが女性の悲鳴を聞いたのは、この森に分け入ってから数刻ほど経過した時だった。

 思わず立ち止まる。ガチャリ、と腰に吊った剣が音を立てる。
 それは、絹を切り裂くような、という文学で聞き慣れたような悲鳴ではない。呻くような、搾り出すような、まるで現実感の無い、それでいて酷く生々しい、そんな悲鳴。どうやら女のそれであるようだった。
 うっそうと茂った森の静寂に慣れていた耳にはその声はひどく場違いに感じられ、レオンしばらくその場で脚を止め、そしてすぐに声のした方向に走り出す。
 悲鳴は断続的に挙がり、徐々にそれは切羽詰ったものになっていく。木々はまるで木霊のように声を反響させ、場所を特定するのに思ってもみないほどの時間を要した。
 少し開けた場所、2人の男と、恐らくは声の主であろう少女を見つけ、そこで彼はまた動けなくなった。

 予想に反して、そこに居たのは屈強な男たちだった。レオンに背中を向けるようにして、ひときわ筋肉質の男がなにやら地面に膝をついている。
 奇妙な光景だった。その男の腰の両側から、妙に白く太い棒のようなものが突き出している。
 いや、それは棒などではなく、脚だった。膝をついた男の両脇から、真っ白な脚が突き出されているのだ。
 男は不自然に身体を揺すり、そのたびに両脇から突き出した白い脚が引きずられるようにしてゆさゆさと揺れる。くぐもった、呻き声と共に。

 少し前から、あの最初に聞いたような女の悲鳴は挙がらなくなっていた。いま女の――いや、少女の口から漏れるのは、苦痛の喘ぎと絶望の呻き。

 少女が、男たちに組み敷かれ、犯されていた。
 質素な綿の服は引き裂かれ、膨らみかけた小ぶりの胸を脇にいる男に弄ばれている。ひときわ大きな身体をした男に腰を抱えられ、腰を打ち込まれる度に少女の口からは苦痛の呻き声が挙がっている。
 やがて少女の声は、苦痛にくぐもった呻き声から、甘い啜り泣きに変わり……

 レオンが理性を保てたのは、そこまでだった。

「うおあああぁぁーーーっ!」

 少女が男たちに組み敷かれ、力ずくで犯されている。
 未だ16になったばかりのレオンには、そのような蛮行は到底受け入れられず、男たちのその汚らわしい行為を絶対に許すことはできなかった。半ば無意識のうちに腰に吊った剣を引き抜き、雄たけびを挙げて男たちに斬りかる。
 少女を犯すことに夢中になっていた男たちだったが、突然の闖入者に対する対処は思いのほか早かった。
 少女の胸を弄んでいた男が、まずは脇に置かれた剣を掲げてレオンに対する。
 構わず剣を叩きつけるレオン、それを己が剣で受ける男。一合、二合、剣戟の響きが森に響き渡る。

『勝てる!』
 灼熱した頭で、だがレオンは己の技量が相手の男を凌駕していることを正確に洞察していた。男の剣は激しかったが、あまりにも粗野だ、正規に剣術を学んだ者のそれではない。
 貴族の嫡子として幼い頃から剣を学んできたレオンの敵ではなかった。
 剣術とは、チェスのようなものだ。レオンは師よりそのように教えられていた。撃ち込み、受け、いなし、相手の数手先を読んで追い詰めていく。恐らくもう数合も打ち合えばチェックメイトだろう。
「どきな」
 静かだが、雷のようなその声は、後ろで見ていた大男から発せられた。それに打たれるようにレオンに追い詰められていた男が下がる。その行為は隙だらけで、レオンの技量であれば一気に斬り伏せることができたかもしれない。だが、彼はそれをしなかった。
「おい兄ちゃん、お前も仲間に入れて欲しいのかい?」
 新たに目の前に立った大男が、下卑た笑いを浮かべてレオンにそう言い放ったからだ。
 挑発だと頭では分かってはいるが、ギリと奥歯を食い締めてしまうのが彼の若さだったかもしれない。
 レオンが挑発に激昂するよりも早く、男は手に持った大剣で無造作に打ちかかってきた。
『馬鹿め、隙だらけだ!』
 脳裏にこの粗野な大男を斬り捨てるまでの手順が瞬時に浮かぶ。まずはこの大振りの一撃を剣でいなし、体勢を崩したところに袈裟懸けを打ち込む。よしんばそれを受けられたとしても相手に反撃の機会は無い、二撃三撃と打ち込めばそれで勝敗は決するだろう。
 正に必勝の戦術、数刻後には血にまみれた男が地面に這っている姿をレオンは幻視する。

 だが、現実はそうならなかった。

 ガギンという鈍い音と激しい衝撃を残し、笑ってしまうような綺麗な放物線を描いて剣が手から飛ぶ。
 レオンのかざした剣は大男の剣を受け流すことができず、あっけなく飛ばされてしまったのだ。
 呆然とするレオンと、つまらなそうに大剣を戻す大男。飛ばされたレオンの剣は横たわる少女の近くに落ちて地面に刺さったが、少女は虚ろな目を中空にさ迷わせたまま反応を示さなかった。
「はっ、とんだ白馬の王子様だな」
 大男の蔑みの言葉も、レオンの耳には届かない。未だ痺れる両手を呆然と眺める。
 一撃、ただの一撃。
 大男の隙だらけの一撃で、自分は剣を飛ばされ勝敗は決した。
 男たちは恐らく夜盗山賊の類だ、そんな男どもが自分に情けをかける道理はなく、恐らく自分はこのままここで殺されるだろう。だがその恐怖よりも、ただの一撃で剣を飛ばされたという事実が、レオンを打ちのめした。
 幼き頃より抱えの剣匠に師事し、貴族中の剣術試合でも負け知らずだった。彼の剣の才能は一族の誇りであったのだ。跡取りである彼が一時家を出て修行の旅に出るなどという突拍子も無い行動も、両親はしぶしぶ認めてくれたほどだった。
 この世で一番強いなどとは自惚れてはいなかったが、近隣では自分より剣の腕が立つ者はいないと思っていた。

「ぼけっとしてるんじゃねぇ!」
「ぐっ……!」
 男の丸太のような拳が頬にめり込み、鈍い音を立ててレオンは地面に転がった。
 大男は更に打撃を加えんがために近づこうとし、だがその歩みはあと数歩というところで止まる。
 憎々しげに睨み付けるレオン。彼の心が折れていないことを感じ取ったのか、大男は振り向き、横たわる少女に顔を向けた。
「おい姉ちゃん、今度はこいつが相手をしてくれるってよ」
 信じられないような粗野な言葉。口の中に充満した鉄錆の味を噛み締め、立ち上がろうとするが、腹を蹴りつけられて再び地面に這わされる。
「うまくできたら二人とも助けてやるぜ」
 その言葉に、横たわっていた少女がよろよろと身を起こすのが見えた。
 歳の頃は14、5だろうか。恐らくは野草かなにかを取りに森に入り、男たちに襲われたのだろう。男たちの劣情を刺激するほどには美しい少女だった。
 殴られたのか、少女の頬は真っ赤に腫れていた、破り取られた服が申し訳程度に身体を覆っており、その身体もいたるところに擦り傷や殴られたような痣ができている。レオンは己が助けられなかった少女を直視できなかった。
 少女は男の下種な提案を拒否するだろう。当然だ、とても人間が思いつくとは信じ難いほどの蛮行、それを拒否するのは当然の権利だ。そしてこの場で自分は斬り殺される、それもまた当然の結果。たかが夜盗山賊ごときに後れを取った自分には当然の、あまりにも不名誉な結末。

「……本当に、二人とも助けていただけるのですね……?」
「――!」
 信じられない言葉を聞いて、知らず伏せていた顔を上げる。少女の表情から本気であることを感じ取り、狼狽のあまり自分でも判別できないような叫び声を挙げる。再び男の靴の先が腹にめり込んで、のた打ち回った。
「おうよ、ちゃんとこの兄ちゃんにサービスしてやりな」
 男は下卑た笑いを浮かべながら見下ろしている。もう一人の男は明らかに不満そうだったが、恐らく首領格であろう大男には逆えないようだ。
 少女がふらつく足取りでレオンに近づく。腹を抱えて呻くレオンにそっと囁いた。
「ごめんなさい、でもこうしないと二人とも殺されるから……」
「やめ……るん…だ……」
 レオンの呻きにも似た制止の声を聞かず、少女は恥じらいの仕草を見せながらレオンの腰布を外した。
「あなたになら……抱かれても構いません…」
 最後にそう囁いて、自分の上で震える少女を、レオンは信じられないような気持ちで見つめる。
 男としてそのような言葉をかけられるのは悪い気はしない、だがこのような状況下では何の慰めにもならなった。少女は明らかに望まぬ行為を強要されており、自分は今ではむしろ彼女を傷つけるために存在しているようなものだ。
 自分は一体何をしているのか。悪漢どもを斬り伏せ、汚された少女を救い出してやるはずだったのに、今こうして自分自身が少女を汚している。こんなことのために自分は剣を習ったのか。
 何がいけなかったのか、どこで間違ってしまったのか。屈辱と身体の痛みがレオンの自尊心を完膚なきまでに叩きのめしていた。

 それは今まで感じていなかったのか、それとも無意識のうちに感じようとしなかったのか。

「うっ…あ……」
 だらしない喘ぎ。だがそれはレオンの口から漏れたものだった。
 彼の背中を、今まで感じたことの無いような快楽が貫いたのだ。
 まるで背骨が溶けてそのまま消えてしまうような圧倒的な快楽。いままで女を知らなかったレオンにとって、強制されたとはいえ初めての性交は鮮烈過ぎた。
 自分たちを見下ろす大男がなにか下卑た声をかけてくるが、いまやそんなことは耳に入らない。いつの間にかレオン自身も激しく腰を動かしていた。
 甘えるような少女の声と荒い息、背骨どころか全身の骨という骨が溶け出してしまったかのような快楽。
やがてそれが臨界を越え、溢れ出すその瞬間、レオンは頭部に激しい衝撃を受け、彼の意識は闇の中に落ちていった。






 まるで雲の中にいるような浮遊感は、激しい頭部の痛みによって現実に引き戻される。
 はっと身を起こした瞬間、再び襲った頭部と腹部の強烈な痛みに、身体を折って呻く。
「大丈夫ですか?」
 穏やかな声に反射的に頭をめぐらと、そこには痛々しく頬を腫らした少女がいた。
 この少女はいったい誰だろう。ここはどこだろう。自分はなぜこんなところにいるのだろう。
 自分は今日、両親と屋敷の使用人に見送られながら屋敷を後にしたはずだ、日が暮れる前にせめて街を抜けようと近道をしようとし、森に分け入って数刻後に女の悲鳴が聞こえた。
 そして――

 瞬間、脳の配線が繋がったようにすべてを思い出す。

「済まない!」
 体裁もなにもなく、レオンはその場に膝をついて少女に土下座をする。
「謝って許されるとは思わない! この場で殺してくれても構わない! 僕は君にとんでもないことをしてしまった!」
 女性を力ずくで汚すという最低の行為に、結果的にとはいえ荷担してしまったのだ。それはレオンの価値観からすれば万死に値する行為だ。少女が自分を殺すというのであれば喜んで従うし、よしんば己の手を汚すことを嫌えば自刃して果てることも厭わない。それだけのことをしたのだ、自分は、この女性に対して。
「頭をあげてください、あなたはわたしの命の恩人です」
 思いがけない言葉に、伏せていた頭をあげる。汚され、貶められた痛々しい姿であっても、だが、少女のその笑みは美しかった。
「あなたが来てくださらなければ、わたしはこの場で殺されていたでしょう」
「それはそうかもしれないが、僕は……!」
「本当にありがとうございました、騎士様」
 僕は騎士なんかじゃない!
 そう叫びたかった。恐らくこのまま領地に帰れば貴族であるレオンは数年を待たずして騎士叙勲を受けるだろう、だが騎士の本質はその高潔な精神だ、今の惨めな自分には到底その資格は無い。
「僕は、僕は卑劣で最低の人間だ……君を助けたかったのに…」
 今になって、悔しさから涙が頬を伝った。
「騎士様はわたしを助けてくださいました」
 涙を流し続けるレオン。
「あなた自身がどう思おうと、あなたはわたしの騎士様です」
 だが少女は微笑んで、彼を赦した。
 レオンには、その笑みが穢れを知らない聖母のように感じられた。





 少女の名は、メリッサといった。
 彼女は森のはずれにひっそりと一人で暮らしており、レオンの予想通り森に食料を取りに入って凶行に巻き込まれたとのことだった。
 街からかなり離れたこのように淋しい場所で一人で暮らしているメリッサは、恐らく寂しかったのだろう、自分を家まで送り、そのまま去ろうとするレオンを必死に留めた。レオン自身、このまま去るのは逃げているようで躊躇われ、しばらく彼女の家に留まることになった。
 こうして、レオンとメリッサの、奇妙な共同生活が始まったのである。

「レオン様、またお出かけになるのですか?」
 心配そうなメリッサの表情、毎度のことだったがそれがなんだか嬉しくて、大丈夫だよと必要以上に声に力を込めてしまう。
 メリッサは明るく前向きな娘だった、あのように辛い目に遭ったにも関わらず、それを一切表には出さず努めて明るく振舞っている。見かけによらず、彼女は強い娘だった。
「いつもどおり剣の稽古に森に行くだけだから大丈夫」
「お一人では危ないです、もしもまた……」
 そこでメリッサの表情が翳る。あのときのことを思い出したのだろう、そんな彼女の表情を見るとレオンも胸が潰れるように苦しい。
 身を案じてくれているのは間違いない、だが自分が一人きりになってしまうのも恐ろしいのだろう。あの粗野な男どもが今度はこの家に来ないとも限らないのだから。
「じゃあメリッサも一緒に来るかい?」
「え!?」
 心底驚いたような顔。
「よろしいの、ですか?」
「うん、まあ見てて面白いものでもないだろうけどね」
「いいえ、そんなことはありません! あの、ちょっとだけ待っていてください、すぐに用意をして参ります!」
 そう言って、いつもの彼女らしくなくはしゃいだ様子でばたばたと用意を始めるメリッサ。それを見てレオンは心の奥が暖かくなるような気がした。
 レオンがメリッサと出会ってから、もう一ヶ月以上になる。傷が癒えてから幾度となく剣の稽古に森に入ったが、そのたびにメリッサは心配してくれる。だがレオンは決してメリッサを伴おうとはしなかった。それが今日に限ってなぜ彼女と一緒に行こうという気になったのか。
 ひょっとしたら、自分は彼女に少しでもいいところを見せようとしているのかもしれない、そんなことを思って苦笑する。
 彼女との共同生活で、実のところレオンはまったくの役立たずだった。本来は男の仕事である薪割りすらもできるようになったのはつい最近のことだ。ましてや料理や洗濯などこのまま何年経ってもできるようになる気がしない。貴族の出である彼にとって、食料の調達や暖を取るための用意などはすべて他人がやってくれることだったのだ。
 『レオン様は、そのようなこと気にしなくてよろしいですよ』と、メリッサは言ってくれる。だがそれが心苦しい。館に居た頃はそれが当たり前だと思っていた、使用人に対して後ろめたさなど感じたこともなかった、だがメリッサに対しては違った。少しでも彼女の力になりたい、自分のことを必要として欲しい、いつの間にか、そんなことを思うようになっていた。
「お待たせしました、レオン様!」
 外套を羽織り、手にバスケットを持ったメリッサを見て、息がつまる。
「レオン様? どうしました?」
「あ、い、いや、なんでもない」
 美しいドレスで着飾った貴婦人、輝かしい宝石を身につけた淑女、そんな過去に見たどのご婦人方よりも、みずぼらしい外套を羽織って微笑むメリッサは美しかった。ともすればこうして思わず見とれてしまうほどに。
「ではお供させていただきます、レオン様」
 ずっとこんな日が続けばいいのに。
 そんな適わぬ夢を、抱いてしまうほどに。

 恐らく考えうる中でも最悪に近い出会いから一ヶ月、確かにレオンは、メリッサに対し特別な感情を覚え始めていた。



 レオンの新しい日課は、剣の稽古だった。教えを請う剣匠はいない、自分の頭の中で想像し創造した相手に対し、実際に剣を振って打ち込む。この角度から打ち込んだ場合、相手がどのような対応をするか、どう反撃してくるか、すべてを脳内で構築する。
 この特殊な修練方法は昔から行っていた、そのときには相手は師事する剣匠であったり、兄弟子であったり様々だった。だがあの日以来、レオンが相手をするのは常にあの大男になった。ただの一撃で剣を飛ばされ、完膚なきまでに敗北した唯一の相手。
 今にして思えば、あれは油断でも、偶然でもない、完全な実力の差だ。技量において自分は完全にあの大男に劣っていたのだ。むしろその差が大きすぎて、隙だらけに見えてしまった。自分は井の中の蛙に過ぎなかった。
「ふっ!」
 今の自分に為せる最高の速度をもった打ち込みも、想像上の大男はいとも簡単にそれを受け止め、逆に回避不可能なほどの速度と重さを持った斬撃を打ち込んでくる。
 初めのうち、レオンはその打ち込みに数十回も斬り殺された。
「っ!」
 だが今のレオンはそれをなんとか受け流すことができる。
 確かに彼は強くなっていた。彼自身気付いていない、剣を習い始めての数年間をまるで数週間に圧縮したように、彼は急激にその力を増していた。たった一度の実践で才能が開花したのかもしれない。
 そう、確かに、彼は天才だった。

 隙を突いて放った横薙ぎの払いは、だが避けられる。まったく彼の攻撃は当たらない、だが想像上の大男は、その払いの鋭さに反撃の機会を与えられない。
「つぇいっ!」
 そして狙い済ました必殺の突きが、回避できない大男の喉元を捉え――
 そこで脳内に創造した大男は霧散する。
 荒い息を整え、剣を下ろす。今日の修練では17勝13敗。なんとか勝ち越せるようになってきた。
「だが、これでは駄目だ……」
 ギリ、と奥歯を噛み締める。
 例えこれが29勝1敗であったとしても、それでは駄目だ。実戦の機会はただ一度だけ、次は無いのだ。その1敗が最初に来れば、自分は命を落とす。実践とはそういうものだ。
 たった一回の実戦、たった一回の敗北。だがその一回で、自分は誇りを、メリッサは貞操を踏みにじられた。次は確実に勝たねばならない、もう二度と自分に、メリッサに害が及ぶことが無いように、たった一度の実戦ですべてを決めねばならない。
 しかし卑劣な手段を用いるつもりはない。それでは意味が無いのだ。正々堂々と戦い、正々堂々と相手を打ち倒す。そうでなくては意味が無いのだ、自分にとっては。

「ふう」
 それからしばらく稽古を重ね、一息ついたところで、メリッサと同行していたことを思い出した。
「あっ、メリッサ…」
 彼女は近くの茂みに座り、飽きることなくこちらを見ている。稽古に集中するあまり彼女の存在自体を忘れ去ってしまっていたこと、そしてなにより傍から見れば一人芝居以外の何物でもない自分の姿を見られていたことを悟り、狼狽するレオン。
「休憩ですか? お疲れ様でした」
 そんな彼の狼狽を知ってか知らずか、メリッサは輝くような笑みを浮かべて器に入れた水を差し出した。
「あ、うん、ありがとう」
 気恥ずかしさを隠すようにそれを一気にあおる。僅かに香る檸檬の風味が心地よかった。

「レオン様の剣は、まっすぐですね」
 唐突なその言葉に驚く。
「わかるのかい?」
 そう問い返され、慌てたように「わたしは剣のことはぜんぜん分かりませんけど」と前置きした上で続ける。
「見ていてとても綺麗でした」
 お世辞を言っているようなそれではなく、ただ事実を事実として述べているような口調。
「レオン様はまっすぐな方なんですね、羨ましいです」
 剣を褒められるのは無論嬉しい、ましてやメリッサに褒められるのであれば尚更に。だがレオンは素直には喜べなかった。
 なぜ、彼女はこんなにも悲しそうなんだろう。
 いままでもそうだった、メリッサは時々、ひどく悲しそうな顔をするときがある。それは日常の何気ない会話の中であったり、一人ふっと息をついたときであったり、様々だ。だがメリッサは時々、今のようにとても悲しそうな顔をする。
「ごめんなさい、変なことを言って」
 知らず俯いていた顔に笑みを浮かべて、メリッサはそう告げる。だがその表情からは悲しみの色が消えることは無かった。





 そして翌日。

「では、行ってきます、レオン様」
「ああ、気をつけて。だけどメリッサ、その、レオン様というのはいい加減やめてくれないか」
「いいんです、わたしにとってレオン様はレオン様なんですから」
 輝くような笑みを残し、メリッサは籠一杯に野菜を持って家を後にする。
 彼女はこうして週に数回、野菜や森で採れた木の実を街に売りに行くのだ。まだ親に庇護されていてよい年齢にも関わらず、それで生計を立てているのだという。
 レオンにとって、それはある種の驚きだった、そして同時に恥ずかしくなる。今まで自分は働いたことはおろか自らの食の心配などしたことがない、自分はなんと温室育ちであったことか。このような森の奥で一人たくましく生きているメリッサと比べ、あまりにも自分が情けなく思えた。
『せめて、メリッサを守ってやれるようになりたい』
 一晩明けて、普段見せる悲しみの表情が嘘のように、メリッサは明るかった。
 だが、彼女はただの少女なのだ。普段は役に立てなくとも、いざというときには必ず守ってやりたい。女性を守るのは男の役目なのだから。

 いや、自分は“メリッサ”を守ってやりたいのだ。
 他の誰でもない、メリッサだからこそ守ってやりたい。



 このとき、レオンは心からそう思っていたのだ。


 彼女のことなど、何一つ、解っていなかったのに――






 その日は、とても月が綺麗な晩だった。
「ただいま帰りました、レオン様」
「おかえり、メリッサ」
 メリッサが帰宅したのはもう夜もだいぶ深けてからだった。珍しいことではない、彼女は一度街に行くと深夜まで帰らない。それでもすべての野菜や木の実を売り切って、塩などの生活に必要な物を仕入れてくる。
「あの……レオン様…」
「なんだい、メリッサ」
 彼女が街で買い込んできた荷物を炊事場に運んでいると、メリッサが躊躇いがちに声をかけてきた。食材を棚にしまいながら返事をしたレオンだったが、その後の言葉が無いために振り返る。 

 そのときの光景を、恐らくレオンは一生忘れないだろう。
 月明かりの中、窓際に佇むメリッサの表情は、なんと表現すべきか。
 苦悩と。
 怯えと。
 そして、諦念。
 内向的な彼女らしい負の感情が見え隠れするその表情は、だがしかし、この上なく美しかった。
 舞踏会などで美しい貴婦人を見慣れているレオンが、メリッサのそれは今まで見たことも無かったような美しさだった。例えるならそれは野草の美しさ、温室で育てられた花にはない力強さ、だがそれでいて、すぐにも折れてしまいそうなほどの儚さ。
「……レオン様……」
 月の光そのもののように、愁いを帯びたその声。
 まるでどこか異世界から聞こえてくるような呟き。
「……あのとき、なぜレオン様はわたしを助けてくださったのですか?」
 血を吐きそうな声で、そう問いかけるメリッサ。そんな彼女に完全に呑まれ、返事どころか指先一つ動かすことができないレオンに、メリッサは繰り返す。
 どうして自分を助けてくれたのか、と。
「わたしは、罪深い人間です」
 それは、懺悔だった。
「わたしは、レオン様が思っているような人間ではないんです」
 神に懺悔を問うような殉教者のそれではない。それは自分の罪を悔い、それによってもたらされる罰に怯えた、あがき続ける人間の懺悔だった。
「明日……」
 何も言葉を発することのできないレオンに、メリッサは、血を吐きそうな口調で告げる。
「明日、街にいらしてください」

「そこでわたしを探してください、わたしのすべてを、お見せいたします」



 翌日、メリッサは昼過ぎに家を出て行った。
 二日連続で街に出るのは珍しいことだったが、彼女は何も言わず、ただ行ってきますとだけ小さく口にしてレオンの元を後にする。
 何も言えず、レオンはただ彼女を見送ることしかできない。
『明日、街にいらしてください』
 彼女が彼に何を見せたいのか、彼女の言う罪とはいったい何なのか。すべてが待ちに行けば解るのかもしれない。
 本心を言えば、レオンは行きたくなどなかった。好奇心は無論ある、メリッサのすべてを知りたいと思う。だがそれ以上に、あんな苦しそうな、あんな悲しそうなメリッサを見たくはなかったのだ。

 だが見なければならない、それが彼女との約束だったから――

 自分でも思った以上に躊躇したのだろう。彼が街につく頃には、既に日が暮れていた。
 メリッサと出逢う前に一度だけ立ち寄ったことのある街は、夜になるとその様相を大きく変貌させていた。
 いたるところにいかがわしい店が開き、呼子の声が下品に響く街。夜の街は、欲望と快楽の渦巻く、レオンがもっとも忌諱する場所に変貌していた。

「メリッサ……」
 彼女はその只中にいた。
 手に持った籠には、とても売り物にならないであろうみずぼらしい花。
 歓楽街の只中で、花を売る少女。
 それが何を意味しているのか、レオンには解らない。いや、解りたくなかったのか。
 路端に佇む彼女の表情を見て、彼は改めて息を呑んだ。
 彼女は、なんの表情も浮かべてはいなかった。
 あの輝くような笑みも、ときおり見せる悲しみも、褒め言葉を口にしたときの花のような恥じらいも、鍛錬で怪我をして帰ったときに浮かべたちょっと怒ったような涙目も、何一ついまの彼女の顔には浮かんでいない。
 そこには、ただ虚無があった。
 道行く人々も、自分自身すらも、何もかもを諦めた、人形のような貌。あんな顔をしたメリッサを、自分は知らない。

「よう、メリッサ」
 佇む彼女に声をかけてきた男、その男の顔を見た瞬間、いや、その男の声を聴いた瞬間、レオンの体内にある血液がすべて沸騰する。
 それは、レオンに屈辱を与え、そしてメリッサに取り返しのつかないことをしたあの大男だった。
『メリッサが危ない!』
 瞬間的にそう判断し、飛び出そうとしたレオンの足が、発せられたメリッサの言葉でぴたりと止まる。
「……まいど…ありがとうございます…」
 混乱するレオン。あの大男は花を買いに来たというのか? いやそれ以前に、自分を陵辱した男に対してメリッサはなんら嫌悪を浮かべるでもなく、相変わらず無表情のままで応対しているのはどういうことだ?
「へっ、またこんなところで客引きか」
「……」
「この間は良かったぜ、たまにはああいう状況設定もオツなもんだろう」
「……」
 メリッサは相変わらず無表情で何も応えない。
 だがレオンにはわかった、メリッサはこちらに気付いている。自分がこっそりと彼女を見ていることに、メリッサは気付いている。
「それにしてもあの坊やは傑作だったな、おい」
 その言葉に、びくりと彼女の身体が震えたのがわかった。
 そして男の口から、破滅の言葉が発せられる。
「娼婦のお前なんぞを庇ってよ、傑作だぜ」



    シ ョ ウ フ



 その言葉が誰を指しているのか、その言葉がどんな意味を持っているのか。
 瞬時に灼熱した頭が、理解した瞬間――

「うおあああああっ!」

 自分のものとは思えない、獣のような雄叫び。
 鞘走りの音。
 驚愕の表情を浮かべたまま、動けない大男。
 肉に鋼が食い込む感触。
 鮮血。

 修練の成果もなにもない。
 誇りも、騎士としての礼儀も何も無い。
 卑劣な不意打ち行為で――

 レオンは、男を斬り殺した。



 月の光が街を照らす。
 突然の凶行に騒然となる周囲にまったく気付くことも無く、レオンはただ、メリッサだけを見ていた。

 大男の返り血を全身に浴びて、だが彼女は、一切の表情を浮かべてはいなかった。


 この時代、年端も行かぬ少女が一人で生きていくということがどれほど困難であるのか、ましてや手に職も持たずこの世界を生きていくことがどれほど辛いことであるのか。
 貴族であるレオンには、結局最後まで理解できなかった。


 血塗れた剣をそのままに、哀れな少女に近づいていくレオン。
 更なる惨劇の予感に、周囲が更なるざわめきに包まれる。
 少女は相変わらずの無表情。
 いや。
 一歩、また一歩とレオンが歩を進めるたびに、あれほど無表情だった少女の貌には徐々に笑みが浮かびつつあった。
 長い旅をやっと終えることができる旅人の笑み。


 血塗れた剣を持ち、少女に歩み寄るレオン。
 返り血に身を染め上げて、青年を迎えるメリッサ。




 そしてそのまま――


 レオンは、彼女の横を、通り過ぎた。




 笑みを一瞬で蒼白に変えるメリッサ。
 まるで信じられないモノを見たような。まるで信じていたものに裏切られたような。そんな表情。

「…どう……して…?」

 レオンの歩みは止まらない。血にまみれた壮絶なその姿に、野次馬たちが悲鳴を挙げて逃げ惑う。騒然とする夜の街、だがレオンとメリッサの周囲のみはまるで時が止まったかのような静寂。

「どうしてですか……レオン様…」

 頬を涙が伝う。

「殺して……殺してください…」

 膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
 歩み去るレオン。もう振り向いてもくれない。



「…殺してよ……」





「お願い、わたしを、殺してよぉ!」





終劇