平検1級クロ検5級
<第四話>
− 鈴木ゆかりの場合(2)−
2009/4/3 久慈光樹
夢を、見た。
教室の片隅でぼんやりとウォーターチェアーに座っている私。
クラスの誰もが知らない顔で、当然ながら友達など誰もいなかった。休み時間になってクラスの子たちが賑やかに笑いあう声もどこか遠い。新学期が始まってから3日、私はクラスに馴染めずにいた。
それも当然だったかもしれない、いまの少し前まで上級生だった人がいきなり同級生になったのだから、話しかける人なんていないだろう。
昔と違い今は中学は義務教育ではなかったから、出席が足りなければ当然進級することはできない。私は病気で休みがちだったから、進級ができないことは覚悟していた。お父様に迷惑を掛けてしまったことは辛かったが、どうしようもないことだ。
今は確かにキツイけれど、恐らくそれもすぐに慣れると思う。あと2年間、私はこうしてずっと貝のように過ごしていればいい、きっとすぐに卒業だ。そうだ明日は何か本を持ってこよう、耐水ペーパー文庫は高いけれど、幸いうちは裕福だ、さっそく明日有田に言って取り寄せてもらおう。
「おいそこのメガネ、人の話聞け」
横合いからの乱暴な声にびっくりして、そちらに頭をめぐらす。
そこにいたのは、前髪を飾り気の無い2本のピンで留めた女の子だった。
「ちょ、ばか、いきなりメガネとか言うなよお前」
横に立ったショートの子が慌てたようにそう声をかける。だってメガネじゃんこいつ、なんて失礼なことを言う髪留めの子。なんなのこの人たち。
「ねえあんた、ダブりなんだって?」
髪留めの子は、いきなりそんな失礼なことをさらりと口にする。これには私の方がびっくりしてしまった。驚いたのは隣のショートの子も同じだったようで、おい歌子、なんて焦ったように小声で腕を引っ張っている。
歌子と呼ばれた子はそんなことは知らないねと言わんばかりになぜか胸を張って言った。
「なんでダブったの? 水泳の成績悪かったとか?」
なんて傍若無人な子なんだろう。普通こんなことストレートに本人に聞く?
私は少しだけ腹が立って、自分が溶液中毒で療養中であることを口にした。
昔からこの病気のことを口にすると、周囲の人たちは皆、その場から立ち去ってくれた。そうなんだ大変だね、お大事にね、そんなうわべばかりの同情の言葉といっしょに、私の目の前から消えてくれていた。
なのに目の前のこの子たちは違った。
「なんだよおまえ病気なのかよ、情報と違うじゃねーか! 誰だよデマ流したのは!」
「ほらみろ、だいたいこの年にもなってクロ検4級も通らないのは歌子くらいだ」
「なんだとこのアマ、望、てめーちょっとクロールが早いからって調子のんなよ!」
「ごめんね鈴木さん――だっけ? こいつ馬鹿で」
「馬鹿いうなこらー!」
二人はまるで病気のことなど何事もないかのように、私の前から消えなかった。
消えないで、くれた。
「なんだよまったく、せっかくわたしよりクロール下手なやつができたと思ったのに」
髪留めの子はそうぶつぶつ呟いた後、なんだかとっても機嫌が悪そうな顔のまま、私に向き直ってこう言った。
「わたしは水野歌子、こっちのは芳川望、あんたは?」
「あ、えと、私は鈴木ゆかり」
「そっか、これからよろしくな、ゆかりん」
「ごめんねこいつ口悪くて、よろしくね鈴木さん」
このとき気がついたのだ。
私は、一人に慣れることなんて、おそらく絶対にできないのだと。
「よろしくね、歌子ちゃん、望ちゃん」
ともだちが、欲しかったのだと。
目を開けると、そこには歌子ちゃんがいた。
「……よろしくね、歌子ちゃん…」
『あん? なんだよゆかりん、ひょっとして寝ぼけてる?』
「え? あれ?」
急いで起き上がろうとして、自分が医療用カプセルポッドの中にいるのだということに気がついた。そうだ、いまは透析中だったんだ。
あれ? でもどうして歌子ちゃんがここにいるの?
まだ夢の続きのような気がして、ポッドの小窓からこちらを覗きこんでいる歌子ちゃんの顔をまじまじと眺める。
『水野様は先ほどお見舞いに来てくださったのです』
スピーカーから有田の声。ああそういうことか、起こしてくれればよかったのに。
『水野様が、お起こしすることはないと』
よく寝てたから起こしちゃ悪いと思って――なんてことは当然口にせず、もう少し起きるの遅けりゃ写真取ったのに、なんて悔しがる歌子ちゃん。この人は少しも変わっていない、初めて私に声をかけてくれたあの時から、少しも。
『お茶のお代わりをお持ちいたします』
『あーすんませんお願いします』
有田が部屋を出て、何とはなしに沈黙が部屋を包み込む。
それを先に嫌ったのは、やっぱり歌子ちゃんだった。
『望のヤツもよろしくってさ』
「望ちゃん、今日は?」
『なんか夕方からバイトだってさ、部活の無いときくらい休みゃいいのに』
「そうなんだ。ごめんね今日は」
『あーまぁいいっていいって、また今度行こうぜ』
「うん」
『しっかし相変わらずでっけぇ家だなぁ』
「そう?」
『まったく羨ましいぜ』
この部屋なんてうちのダイニングより広いじゃねーかちくしょう、と笑う歌子ちゃん。そんな彼女を見ていると、何とはなしに言葉が口をついた。
「私は、歌子ちゃんの方が羨ましいな」
『へ? そうかぁ?』
「私も歌子ちゃんみたいになりたいな」
そう言うと、なんとも形容しがたい表情になって黙ってしまう歌子ちゃん、いけない誤解させてるね。
「ううんそうじゃないの、確かに健康なのは羨ましいけれど、そういう意味で言ったんじゃないよ」
『べ、別にそんなこと思ってねーよ』
「うふふ、私が羨ましいのは別のこと。ねえ初めて会ったときのこと覚えてる?」
『……あー、なんかクラスに見知らぬメガネがいたときか』
「見知らぬメガネとかゆーな!」
望ちゃんの口調を真似てそう言うと、なんか妙にウケた。歌子ちゃんの笑いのツボは相変わらずよく解らない。
「私ね、あの時、この人すごいなって思ったの」
『すごい失礼なヤツだ、とかそういうオチか』
「そうも思ったけど」
『オイ』
「あはは、そうじゃなくてね、私が羨ましかったのは、歌子ちゃんがとっても強い人ということ」
『強いか?』
「歌子ちゃんは強いよ、とっても強い人だよ」
そうかなぁ、なんて頭をぽりぽりかいている歌子ちゃん。
「普通はさ、初対面の子にお前ダブったのかーとか、お前病気なのかー、とか言わないよ」
『あー、そういうもん?』
「そうだよ、普通は気を遣ってそういうことには触れないもん、歌子ちゃんにとっては病気だとかダブりだとかは割とどうでもいいことなんだよね」
『えっとあの、のぞみんひょっとして怒ってる?』
「ううん、怒ってないよ。私が言いたいのはそういうことじゃなくて」
少し考えて、口を開く。
「きっとそれは、歌子ちゃんが私と同じ病気になっても、2年生をもう一度やることになっても、めげない人だからなんだと思う」
そう、きっとそういう状況になっても、この人はちくしょうめと言いつつ軽がるとそれを乗り越えてしまうだろう。私が苦労して乗り越えているハードルの存在になんて気付きもしないで、軽々と飛び越えてしまうんだ。
私はそれが羨ましくて、そして、誇らしかった。
私のともだちはこんなにも強くて優しい人なんだということが、とてもとても、誇らしい。
歌子ちゃんがいてくれるから、私は自分が不幸だなんて思わない。それはそうだ、こんなにも素敵なともだちがいてくれるのに、不幸なんてことがあるわけがない。
そしてそれはきっと、望ちゃんも同じだろう。彼女もお家の事情でだいぶ苦労していると聞く、でも歌子ちゃんといっしょのときは、初めて会ったときのようにとても活き活きと笑っているのだから。
わたしたちは歌子ちゃんに出会えて、本当に良かった。
「歌子ちゃん、ありがとうね」
『な、なんだよいきなり』
唐突な私の言葉に赤面する歌子ちゃん。普段は傍若無人で乱暴ものなのに、こういう直球にはとことん弱い。相変わらずだ。
「あれどうしたの歌子ちゃん、顔真っ赤だよ?」
『ええいうるさい!』
『お茶をお持ちしました、と水野様どうされました、お顔が真っ赤でございますが』
『もう有田さんまで!』
有田の茶目っ気に、ますます真っ赤になってしまう歌子ちゃん。そんな彼女を見て、お腹の底から笑うことができた。
いつか私も、歌子ちゃんのように強くなれるだろうか。
歌子ちゃんのように、素敵な女の子になれるだろうか。
ポッドの中に響く自分の笑い声が、きっとだいじょうぶだよ、と言ってくれている気がした。