平検1級クロ検5級
<第三話>
− 鈴木ゆかりの場合(1)−
2009/4/1 久慈光樹
あれだけ楽しみにしていたTDRは、またお流れになった。
またしても、私が体調を崩したからだった。
私、鈴木ゆかりは今年で15歳になった。
通常15歳といえば中学3年生で、高校受験に向けて水検取得に打ち込まねばならない年のはずだった。
でも私はまだ中学2年生、病気のために1年生を2回やったからだ。
『Kanon溶液不適応性体液循環障害』、俗に言う「溶液中毒」、それが私の病名。
お医者様曰く、症例のほとんどが慢性化を伴う重病。
本来血液を含む身体中の体液循環をサポートするKanon溶液への体質拒絶、アレルギー性反応から、重度の貧血と体温低下症を引き起こす。重度の場合は完全に環境に適合できず死に至る危険な病。幸いにして私のはそこまでは酷くないから、医療用カプセルによる溶液透析でなんとか凌いでいる。
溶液透析というのは、約10倍に希釈したKanon溶液および体内浸透補助液の満たされた医療カプセルに5時間以上浸かることにより体内の溶液濃度を減らし体液循環を正常化すること、なのだそうだ。ただし通常濃度適応への体質改善が図られない限り根本的な解決とはならず、体質改善には長い治療を必要とする。今のところ有用な治療法は確立されていない。
つまり解りやすく一言でいってしまえば、フジのヤマイというやつだ。
この病の一番やっかいなところは、体液不順からくる貧血でも、重度になれば手足の壊死すら伴う末端症でもなくて、普段は健常者と一切変わりなく生活できるというところかもしれない。
普段から病弱で生活に制限があればまだ我慢できた、自分は健常者とは違うのだという諦めもついた、だが普段の私は歌子ちゃんや望ちゃんと笑いあい、泳ぎ、遊び歩くことだってできる。元気な歌子ちゃんやスポーツ万能の望ちゃんといると、自分が健常者であるような錯覚を覚えてしまうほどに、普段の私は制約がなかったのだ。
それはTDRに行こうと約束した当日のことだった。
「あ…れ……?」
指に力が入らなくなって、ペンタブのタッチペンを取り落とす。
土日の宿題を早めに終わらせてしまおうと、待ち合わせまでの時間に自宅の離水デスクで課題を解いている最中に、それは起こった。
「おかしい…な」
机から転げ落ち水に浮かんだタッチペン、それを拾い上げようとして、また取り落とす。
指先はまるでソーラー冷蔵庫に入っていたかのように冷たく、感覚が徐々になくなりつつある。手だけではなく、足の先からもぞっとするような寒気がこみ上げてくる。
それは明らかに溶液中毒の症状だった。体内の体液が循環不良を起こし、心臓が温かな血液を身体の隅々まで輸送することができなくなっているなくなっているサイン。
だけど――
「おかしいな、先週の透析はちゃんと済ませたのに……」
あの孤独で息が詰まるような医療ポッドでの溶液透析は、先週の日曜日に終えている。週一回のそれは例え私が忘れたくても、担当の医師と執事の有田が忘れさせてはくれない。
とにかくこのままじゃまずい、手足の感覚喪失の次に来るのは脳貧血、ヘタをするとこのまま溺れてしまいかねない。
「あ…う……」
動かぬ手を何とか動かし、離水デスクの脇に備え付けられたインナーフォンのボタンを押す。
そこで私の意識は途絶えた。
『お目覚めですか、お嬢様』
目を開くと、耳元のインターフォンから聞き慣れた声。
手足を包み込む暖かな液体の感触と息が詰まるような圧迫感、目の前の小窓から差し込む光が眩しい。
気づくと私は、医療ポッドの中いた。
「有田、私は…」
それは呟き未満の声だったが、ポッド内のマイクから外にいる有田には伝わったようだ。
『お嬢様は自室でお倒れになったのです、先ほどまで担当の先生がいらしていました』
「そっか、私、また…」
『どうかそのまま安静になさっていてください』
「うん、ありがとう、有田」
小窓から、有田の顔が見えた。
私が生まれる前からこの家に仕えてくれている執事の有田は、だがまだ40代も半ばで、一般に言う「執事」というイメージからはかけ離れていた。『執事といやぁ白髪白髭の爺ちゃんだろ、ありゃあサギだサギ』なんて歌子ちゃんの言葉を思い出して微笑む。
私のその笑みをどう取ったのか、有田が安心したように小窓からいなくなる。小さい頃はそれが恐くて、有田に我がままを言ってずっとお話をしてもらったりしたものだ。
「ねえ有田、このこと、お父様には?」
『旦那様は現在フィリピンの商社に出張なさっておりまして、まだお伝えしてはおりません』
「お願い、このことお父様には秘密にしておいて」
『……かしこまりました、お嬢様』
雇い主の娘の体調変化を主に伝えないというのは、執事としてはペナルティーであることを承知で私はそうお願いし、有田は聞き入れてくれる。この人が伝えないと約束してくれたのなら例え自分が罰せられても絶対に伝えないだろう、私は有田を信頼していた。
と、私はそこで歌子ちゃんたちと待ち合わせをしていたことを思い出した。
「有田、いま何時?」
『午前10時15分でございます』
よかった、倒れていた時間は1時間ほどだったらしい。待ち合わせ10時半なので、急いで連絡すればまだ間に合うだろう。
「ねえ有田、歌子ちゃんの水導携帯に電話したいのだけれど」
『本日のお約束の件でしたら、先ほど私が水野様と芳川様にお電話をさせていただきましたが』
「え?」
『事情をお伝えしまして、本日は失礼させていただく旨、ご連絡いたしました』
「…そう、ありがとう有田」
『勝手なことをしてしまい、申し訳ございません』
「いいの、助かったわ」
実際そうしようとしていたのだし、有田は歌子ちゃんと望ちゃんとは顔なじみだから、電話してくれたのは正直ありがたかった。
それでも声に失望感が滲んでしまうのは、どうしようもなかった。有田が悪いわけではない、でもせっかくの約束をこちらの都合でキャンセルしたのだ、せめて私の口から謝りたかった。
「少し眠ります」
『はい、おやすみなさいませ、お嬢様』
透析はあと4時間ほどかかるだろう、高い浮力を持たせたポッド内の透析溶液に浮かびながら、私はゆっくりと目を閉じた。