平検1級クロ検5級
<第二話>
−お日様はサディスティックな女王様−
2007/9/23 文:久慈光樹
絵:織田霧咲羅
「あちぃなオイ……」
本日の海面温度、34度也。
暑い。暑すぎる。
80年ほど前、まだ『リクチ』なるモノが存在していた頃は、日本国近海は海面温度20度から25度くらいだったのだそうだ。
ありえない贅沢さ、きょうび25度なんて天国みたいなもんだ。つーか体温より10度も低い海面温度とか普通にありえねぇ! なんだよそれ、どこのパラダイスだ!
「はいでは次の問題を、この暑い中でも無駄に元気いっぱいの水野さん」
うぇ、当てられましたよ? つーかいま何の授業よ?
みんなわたしをたすけてーと周りに視線を飛ばせば、望は『お前はうるさい』とばかりに冷たい視線を送ってよこし、ゆかりんは『がんばってねー歌子ちゃん』と無邪気な視線を送ってよこす。というかこいつら本当にわたしの親友か?
「あら水野さん、ひょっとして私の話を聞いていなかったのかしら?」
なにが『わたくし』だこのオールドミスめ、セパレート水着スーツとか歳を考えろっつーの! ええいもうあたまきた、授業終了まで水草掃除だろうと廊下で立ち泳ぎだろうと構うもんか!
「本年度の年間平均海面温度29度とか、ありえないと思います!」
「……はい正解です、水野さん着席して結構です」
顔には満面の笑み、目だけは『ちっ、てめぇ聞いてなかったくせによく答えられましたわね次は見てろ』と言わんばかり。どうやら適当に答えたら正解だったようだ、ざまぁみろこの行き遅れ歴史教師が。
![]()
水面に胸から上が出るように調整されたウォーターチェアーに腰を下ろして勝利の笑み。ふふん。
「はい、先ほど水野さんが“たまたま”答えてくれたように、現在の地球の平均水面温度は約29度で安定しています。皆さん手元の水面プロジェクタに注目してください」
言われたとおり、目の前の離水性デスクに備え付けられたプロジェクターに注目する。
水面と天井に備え付けられた反射鏡を介して、目の前のデスクに棒グラフが浮かび上がった。
「このように、過去20年は水面温度の上昇およびUV値は安定の一途を辿っています」
オールドミスの言うとおり、5年単位の水面温度とUV値の複合棒グラフは4本前からほとんど増加していない。だがそれもそれ以前の10本のグラフの増加率と比しての話だ。2010年から60年にかけてのグラフはすごい落差を描いている。特にUV値の青いグラフに至ってはバミールのフェドチェンコ大滝のごとき高低差。こんなんでよくもまぁ、生き残ったもんだ。偉いぞ人類。
「では次の問題です、現在では常識である水面におけるUVカット政策とその施行年度を、鈴木ゆかりさん」
鈴木、という珍しくもない苗字はこのクラスだけで3人いるが、その中で当てられたのはゆかりんだった。ウォーターチェアーから腰を下ろして立ち泳ぎになってゆかりん。
「Kanon計画、施行は2064年です」
「はい正解です、さすがは鈴木ゆかりさんですね、着席してください」
Kanon(keep a navigat of nature)計画。
水生を余儀なくされた人類が編み出した、奇跡の(あるいは狂気の)政策。
全世界の水面2mに渡り、UVカット・体温維持・体液循環補助の効果を持つ溶液(Kanon溶液)を散布し、降り注ぐ太陽からの攻撃を遮断する計画。2064年に施行され、現在に至るまで人類の守護天使となった画期的な政策。
提唱者は当時の日本の女性科学者Dr.Misaka、天才の名をほしいままにしたマッドサイエンティスト。彼女の提唱した計画のおかげで、本来滅びる運命にあった人類は絶望の淵から這い上がる機会を得たのである。
なんてことをだらだらと語るオールドミス。というか目が逝ってる。大丈夫かこの教師。
Kanon計画はこの時代に生きるものであれば誰もが知っている。天からわたちたちを睥睨するお日様は、今も昔も地球に恵みを与えてくれる。だけどその実、お日様はこの上ないほどのサディストで、そのまま浴びればたちまちにわたしたちを殺し尽くすほどの紫外線を地球に向けて照射し続けているのだ、今この瞬間も。
魚さんたちが当然のように持っている水生生物として欠かすことのできない器官――エラというものを遂に獲得できなかったわたしたち人類は、サドなお日様の鞭であるところの紫外線が降り注ぐ水面付近で一生を送ることを余儀なくされている。だからこそ、卑小なる人類には防衛手段が必要であったのだ。
教科書には必ず載っているDr.Misakaというオバサンがそんな殊勝なことを考えていたかどうかは知らないが、結果として人類はKanon計画という手段で身を守らざるをえなかった。わたしも望もゆかりんも、この歴史教師もクラスのみんなも、この時代に生きるすべての人間は水の中でしか生きられない。ひとたび水から上がってしまえば数時間で紫外線、UVという怪物に焼き殺されてしまうのだ。
だが果たしてそれはわたしたち人類にとって幸せなことだったのか、自然の摂理に反し、醜く生に執着した人類は、結果として種としての可能性を自ら閉ざしてしまったのではないか――
と、そんならしくないことをつらつらと考えているうちに、チャイムが鳴った。
いかんな、暑さで思考がバイオレンスだぜ。
「ヘイ望&ゆかりん! メシ食いに行こうぜ!」
「昼食時になると歌子は元気になるな」
「よっぽどいつもお腹がすいてるんだねー」
「じゃかーしい。いいから学食行こうぜ」
そんなことを話しながら、学食棟へと泳ぐ。ここ泉瀬女子学院はその名の通り女子中学校だ、特別にお嬢様校というわけではないが、さすがに学食で戦争が起きるほどバイタリティ豊かな生徒ばかりでもなく、慎ましやかな田舎の女子校という趣である。
「おばちゃんわたしBランチ!」
「あら歌子ちゃん、今日はAランチじゃないのね」
「いやー、まぁたまにはね」
「珍しい、今年の夏は台風が一つも来ないんじゃないかしら」
“学食のおばちゃん”というには若すぎる(三十代半ばとみた!)、でも慣例として“おばちゃん”と皆から呼ばれている学食のおねーさんと軽口を交し合う。
「ボク、ジャージャー麺と半ライス」
「私はー、パスタランチでー」
望とゆかんりんはいつものやつだ。
ジャージャー麺というのは茹でた麺を軽く炒めて汁気を飛ばしたラーメンだ。この時代、ラーメンと言えばこれが一般的、昔は汁に浸かったラーメンが一般的だったらしいけど、この時代では水質汚染は即座に生活に直結する公害となるためいわゆる“汁物”はほとんど廃れてしまっている。
「週末の話、どうなったのー?」
学食の硬いウォーターチェーアーに座ってそれぞれの昼ごはんを食べながら、珍しくゆかりんがそう口火を切った。
「週末ってーと、TDRか?」
「そうだよ行くって前に皆で約束したじゃない」
「あー、そうだっけ?」
「あ、ひっどーい、私楽しみにしてたんだよー?」
TDRというのは、東京ディスティニーリゾートという複合アミューズメントパークのことだ。ミギーマウスなる水生ネズミやら、ダンディーダッグなるガタイのいいアヒルがマスコットの人気スポットである。
「いやわたしは構わんが、望の部活がなぁ」
「望ちゃん、今週末も部活なの?」
「うーん、うちの水球部は来月試合だからなぁ……」
望は水球部のエースだから、そうなるとそうそう部活を休むわけにも行かないのだろう。申し訳なさそうにそうつぶやく。
「そういうわけだからゴメン、ゆかり」
「うー」
ゆかりんは超不満げだ。
「いや別にボクに気を遣う必要ないよ、二人だけで行ってきたらいい」
「えっ、私と歌子ちゃんと二人っきりで……?」
「む、なんだよゆかりん、わたしと二人だとそんなに不満か」
「ううん! ううん、その、そういうわけじゃないんだけど……」
ちらちらとこっちを伺いがらゆかりん。というかなんでそこであなたは顔を赤らめますか?
「え、えーと、歌子ちゃんがいいならそれでも……」
「ええいもう! わかったよ、じゃあ来月、望の試合が終わったら打ち上げも兼ねてTDRということで!」
「りょーかい、それならOK」
「……いいけどさ」
ええい、なぜそこでゆかりんは不満げに口を尖らせますか! 恨みがましくこっちを睨みますか! なんで目が潤んでいますかっ!
何事もなく過ぎ行く平日の一日。
泉瀬学院の日常であった。