「冷てぇ……」

 

 夏の終わりの一時的な夕立。だがそれは一向にやむ気配を見せず、とぼとぼと歩く俺を頭の先からつま先までずぶ濡れにしていく。

 都会と違い不快な湿気こそないが、背中に徐々に張り付いていく濡れたシャツのとびきり不快な感触が俺を更に陰鬱にさせた。

 

 

 

 

 


夕虹 -ゆうにじ-

第五話

2008/09/19 久慈光樹


 

 

 とにかく一旦はあの家に帰ろう。

 そう思った。

 そしてそのまま荷物を取って、駅に行くのだ。

 田舎のこの街でも、まだ電車がなくなるような時間帯でもないだろう、鈍行で少し先の街まで出れば、そこからは住んでいる街まで特急一本だ、うまくすれば今日のうちに帰れるだろう、いや帰れなければ特急に乗る街で一泊してもいい、ビジネスホテルならば予約なしでも飛び込みで泊まれるところはいくらでもある、会社には明日から出社してもいいし、どうせなら予定通り一週間休むのもいい、どうせ彼女もいない気楽な一人暮らしだ、ここのところ忙しかったのだし、ビールでも飲んでだらだらと過ごすのもたまにはいいだろう、とにかく、電車に乗ってこの街から出よう、いますぐに――

 

「お兄さん!」

 

 びくんと、知らす伏せていた顔を上げた。

 ところどころひび割れたアスファルトにばしゃばしゃと打ち付ける雨音。そしてそれを圧するように、夕実ちゃんの声。

 どこまでも続いているんじゃないかと錯覚するような田園風景、そこにぽつんと見捨てられたように佇むバス停と、小さな屋根つきのベンチ、待合所と呼ぶのもおこがましいようなそこに、夕実ちゃんは立っていた。両手には近所に新しくできたというスーパーのビニール袋。

 降りしきる雨の中、とてとてと俺の元まで駆けてくる小さな彼女に、濡れちゃうだろうに、なんてぼんやりと考える。

 

「びしょぬれじゃないですか! こっち、こっちで、雨やどりできますから!」

 

 そう言って俺の腕を掴んで引っ張ろうとするが、あいにく両手は買い物袋で埋まっている。うー、となんだか笑ってしまうような唸り声を小さく上げて、こっちです、とぐいぐい濡れた俺の背中を全身で押してくる。

 そうして気付けば、びしょ濡れの俺と、少し濡れてしまった夕実ちゃんは小さな待合所で並んで雨やどりをしていた。

 

 冷てぇ……

 

 ややボーっとした頭で、そう思った。

 背中に完全に張り付いてしまった濡れたシャツの不快な感触。

 夕立は一向にやまない。

 

「えと、傘、持ってくるの忘れちゃって」

 

 沈黙に耐えられなくなったのか、夕実ちゃんが申し訳なさそうに、唐突に口にする。

 なんとなくそれには応えず、夕実ちゃんが傘を持ってたら相合傘で家まで帰れたなあ、なんてとりとめのないことをぼんやりと考えた。

 どうやら夕実ちゃんもその絵を想像したらしく、なぜだか急にそわそわして顔を真っ赤にする。

 

「あ、で、で、でも、わたし傘さすの下手だから、けけ、結局は、濡れちゃいますよね」

 

 真っ赤な顔のまま、あははは、なんて空笑いする夕実ちゃん。

 いやもしその状況になったとして、普通は俺が傘を持つだろ。

 俺の胸くらいまでしかない夕実ちゃんが必死に腕を伸ばして傘を差す姿をぼんやりと想像して、表情に出さないように苦労して内心で少しだけ笑った。

 

「お、お兄さん、今日はどこに行ってきたんですか?」

 

 話題を返る必要性を感じたのか、やや唐突に、夕実ちゃんは俺にそう聞いてきた。

 ぼんやりと、背伸びして爪先立ちになりながら傘を掲げる夕実ちゃんを想像していたのがいけなかったのか。

 普段だったら気を遣ったろうに、この時は素直に、母親の墓参りと答えてしまっていた。

 

「そう、ですか……」

 

 思いの外しょんぼりとした声に、我に返る。

 あ、いや、ほら、たまには顔を見せておいた方がいいかと思ってさ、なんてことを慌てて口走り、更に状況を悪化させてしまう。

 

 

 解っているのか、秋山裕也。

 生きている“家族”には、十年近くも顔を見せなかったんだぞお前は――

 

 

 失態に内心で舌打ちをする。お前はいったい幾つになった、こんな小さな子に気を遣わせてどうしようってんだ。

 ますます顔を伏せてしまった夕実ちゃん、やばいな泣いちゃうかな、なんて俺の狼狽とは裏腹に、上げた彼女の顔には笑顔があった。

 

「そうなんですか、お兄さんのお母さんもきっと喜んでくれましたよね」

 

 聡い子だ。

 だけど俺は更に罪悪感。

 大人だったら完全に取り繕えただろうに、残念ながらまだ幼い夕実ちゃんのその表情は、その健気な意思を完全に裏切っていた。

 そして大人だったら俺も少しは気の利いたことが言えただろうに、餓鬼の俺は、ただ、そうだね、としか口にできなかった。

 

 文字通りの夕立。

 一向に降りやむ気配がない。

 

 

「お母さん、早くよくなるといいね」

 

 沈黙を嫌って唐突にそう口にして、口にした瞬間に後悔した。

 縁起でもない。母の墓参りをした直後に口にする台詞かそれが。

 もし涼子さんも母さんと同じように――なんてことをちらりと考えてしまって、背筋がぞくりとした。雨に濡れて冷えたのか、それとも違う理由からだったのか。

 

 だけど素直な夕実ちゃんは、拙い俺の言葉を額面通りに受け取ってくれたようだ、はい! と今度は演技じゃない心からの笑顔で元気よく応えてくれる。

 その輝くような笑顔に釣られたわけでもないだろうが、あれだけ激しく降っていた雨も徐々にその雨足を弱め始めた。

 なんとか深刻な話にならなかったという安堵感と、そこはかとない罪悪感。それを取り繕うように俺は饒舌になることにした。

 学校のこと、友達のこと、親父のこと、そして涼子さんのこと。ほとんどが俺が聞いて夕実ちゃんが答えるという形だったけれど、それからの俺たちは割と自然にいろいろんな会話ができたように思う。

 兄と妹にしてはぎこちなく、でも見知らぬ他人よりはやや親しげに。

 

 

 そうこうする内に、完全に雨は上がった。

 夕立は長くは続かないからこそ夕立なのだろう。

 

 

「あっ、見て見て、お兄さん、虹が出てますよ!」

 

 なんだかとても大切な宝物を見つけたような様子で、東の空を視線で示す夕実ちゃん。

 なるほど、雨上がりの空に大きな虹が。

 都会では見ることができないような、見事な虹が。

 

 

 

「夕虹、ですね」

 

 ゆうにじ。

 その言葉を聞いた途端、まるで昨日のことのように記憶の奥底から溢れてくる大切な人の言葉。

 

 

『あれはね裕也、夕虹っていうのよ』

 

 

 

 ぼんやりとする俺に気付くこともなく、夕実ちゃんはちょっぴり誇らしげに言葉をつなぐ。

 

 

「あのね、夕方に出る虹のことを、夕虹っていうんですよ」

 

『夕立の後に出る虹のことを、夕虹っていうの』

 

 

「あのねあのね、夕虹が見れたら、明日はきっと晴れるんです」

 

『夕虹が見れたら、明日はきっと晴れるのよ』

 

 

 

「…そうなんだ」

「うん、あのね、お母さんが教えてくれたの」

 

 

 遠い過去と近い過去。

 病室でベッドに横たわる母。

 その母に寄り添う、小さな男の子。その母に寄り添っていたであろう、小さな女の子。

 母親が話してくれる夕に出る虹の話。それは傍から聞けば他愛の無い、ほんの些細な虹の知識。

 だけど男の子も、そしてたぶん女の子も、まるで不思議な御伽噺のように、胸をわくわくさせて母の話に聞き入る。

 遠い過去の中の男の子も、そして近い過去の中の女の子も恐らくは、だいすきなお母さんから教えてもらう話だったから、それはとてもとても大切な宝物。

 明日はきっと晴れる、だから明日は今日よりもきっと素敵な日になる。

 遠い過去の中にいた男の子は、そう信じていた。

 近い過去の中にいた女の子は、きっと今でもそう信じ続けている。

 

 

「そっか、明日はきっと晴れるんだね」

「はい、きっと晴れます」

 

 今日よりも、明日はきっと素敵な日になりますよ。

 そう口にしたわけではないのだけれど。

 夕実ちゃんはきっと、そう言っていた。

 

 

 

 

 

 家に帰ったら荷物を取ってすぐ電車に乗ろうと決めていたけれど、夕実ちゃんと一緒に帰ってきてしまった以上、すぐにそれを実行するのも適わない。

 気を利かせて風呂を沸かしてくれたけれど、そこはレディファースト、遠慮する夕実ちゃんを半ば強引に先に入れて、とりあえず用意してもらったタオルで濡れた身体をを拭いた。バッグから新しいシャツとズボンを取り出して着替える。

 夏の終わりで都会より遥かに過ごしやすいこの街とはいえ、雨に濡れて寒さに震えるほどの季節でもない。濡れた髪もそのままに、とりあえず煙草と携帯灰皿を取り出す。

 

「ちょっと濡れちまったか」

 

 濡れたズボンのポケットから吸いかけの煙草を取り出しため息をつく。

 バッグの中に1カートン入っていたが、まだ半分ほど残ったそれをそのまま捨てるのも忍びなく、湿気て味の落ちた煙草に顔をしかめながら1本を吸い終わる。

 立て続けにもう1本に火をつけようとしたところで、声をかけられた。

 

「あ、あの、出たので、その、お兄さんもお風呂入ってください」

 

 振り向くと、お風呂上りでやや頬を紅潮させた夕実ちゃんが、申し訳なさそうに立っていた。

 早いな、出るの。そんなに急がずゆっくり入っていればよかったのに。

 

「ああうん、ありがとう、じゃあ入らせてもらうかな」

 

 咥えたまま火をつけていない煙草をどうしようか一瞬迷ったが、半ば濡れた箱にそのまま突っ込んで立ち上がった。

 着替えてしまって正直面倒だったが、せっかくの好意だ、素直に受け取るとしよう。

 

「バスタオル、新しいの出してありますから」

「ん、ありがとう」

 

 初めて気付いたが、風呂場は改装されていた。

 子供の頃の記憶の中でも狭かった浴槽は、今の俺が少し膝を曲げるだけで浸かれるくらい広々としていたし、ひび割れていたタイルも乳白色の暖かい雰囲気のそれに変わっていた。

 

「はあ、風呂はいいな」

 

 一人暮らしだとシャワーで済ませてしまうため、こうしてゆっくりと風呂に浸かるのも随分と久しぶりのような気がする。一緒に旅行に行くような彼女もいないから、せいぜい会社の付き合いでたまに行くゴルフの後に大浴場で浸かるくらいか。

 意識してはいなかったが、やはり手足の末端は冷え切っていたらしい。身体に染み込んでくるような暖かさにしばし時を忘れた。

 

「どうしたもんかな」

 

 暖かなお湯に身を委ねながら呟く。

 

 俺はここに居るべきではない

 その気持ちは今も強くある、でもこうして落ち着いて考えてみると、すぐに出て行くというのはいささか短絡的すぎたような気もする。

 少し話しただけだが、夕実ちゃんはまだ幼いが聡い子だ、急に俺が出て行くなんてことになれば余計な気を遣わせてしまうだろう。それに今、少なくとも親父が仕事に行っている間はあの子はこの広い家に一人きりなのだ、せめて涼子さんが退院するまではあの子の傍にいてやるべきではないのか。

 

「はっ、いまさら兄貴面かよ」

 

 唇を歪め、そんな都合のいいことを考えた自分勝手な自分を嘲笑う。

 十年も音信不通だった義理の兄がいきなり押しかけてきて居座る方が、よほど夕実ちゃんにとっては気まずいだろうよ。

 まあ、どうするにせよ、とりあえず今日はここに泊まろう。明日も涼子さんの見舞いに行こうとあの子と約束したのだ、せめてそれくらいはしてあげてもいいだろう。

 それまでせいぜい大人しくしていよう。

 どうせこの家にはもう俺の居場所なんて無いんだから、せいぜい邪魔にならないように、夕実ちゃんに気を遣わせないように、一晩くらいそうやって過ごせばいいさ。

 見慣れぬ真新しい浴室の天井を見上げながら、俺はそんなことをぼんやりと考えていた。

 

 

 

「出たよ、ありがとね夕実ちゃん」

 

 首からタオルをぶら下げて、台所に立つ夕実ちゃんにそう声をかける。今日もどうやら夕実ちゃんの手料理のようだ、柿本のおばさんも妙な気を遣ってくれてるみたいだな。

 

「あ、はい」

 

 そう飛び上がるように言って身体ごと振り向く夕実ちゃん。エプロンがよく似合っている。

 しかし、うーん、警戒されているわけでもないだろうが、慣れないなやっぱり。

 

「えと、晩ご飯、7時くらいでいいですか?」

「いや別にもっと遅くてもいいよ」

「お父さん、きっとそのくらいに帰ってくると思うから…」

「そっか」

 

 申し訳なさそうな夕実ちゃんの様子に、内心で苦笑する。別にそこまで気を遣う必要ないのに。

 

「了解、じゃあ悪いけどご飯になったら呼んでくれるかな、部屋にいるから」

「あ、はい」

 

 台所を出て行こうとしたところで、後ろからまた声をかけられた。

 

「あ、あの、お兄さん」

「うん?」

 

 振り向くと、先ほど風呂上りでそうだったように少し顔を紅潮させて、不自然に視線を泳がせた夕実ちゃん。

 

「どうかした?」

「あ、えと、その……」

 

 もじもじと両手を胸の前で組んだり離したりしながら、何か言いずらそうにしている。

 ええと、俺何かしたかな。風呂上りでチャックが全開とか、髪の毛が豪快に立ってるとか。

 こっそり確認して大丈夫そうだったので、夕実ちゃんの言葉を待つ。だけど続く言葉は「えと、何でもありません…」という消え入るような言葉だった。

 

「ええと、じゃあ部屋にいるから」

「はい……」

 

 ひょっとして、いつまで俺がここにいるのか、と聞きたかったのかな。

 昔俺の部屋だった場所に歩きながらそう考えた。なるほどそれなら面と向かって聞きづらいのも解ろうというものだ。夕実ちゃんはいい子だから、そんなこととても聞けなかったのだろう。

 

「大丈夫だよ夕実ちゃん、明日には俺は出て……」

 

 出て行くから。

 そう一人ごちようとして、部屋の戸を明けた俺の言葉は止まる。

 見慣れた部屋、だけど見慣れない部屋。

 その部屋の真ん中に置かれたちゃぶ台の上に、先ほど吸いかけた、濡れてくしゃくしゃになった煙草の箱。

 その脇に、真新しいガラス製の灰皿が置かれていた。

 雨やどりをしている時に夕実ちゃんが両手に下げていた、スーパーの袋が脳裏に浮かぶ。

 

「わざわざ、買ってきてくれたのか」

 

 さっきの夕実ちゃんは、きっとこのことを伝えたかったのだろう。

 今も昔も、この家で煙草を吸う人間はいない。

 夕実ちゃんは当然として、涼子さんも吸わないし、親父も昔から煙草なんてものは一切やらない。

 真新しいガラスの小さな灰皿は、俺のために、俺のためだけに、夕実ちゃんが用意してくれたものなのだ。

 

「そっか」

 

 なんとなくそう呟いて、半ば無意識にくたびれた箱から煙草を一本取り出し、火をつける。

 紫煙を肺に深く吸い込み、吐き出す。

 相変わらずそれは湿気ていたけれど、なぜだかひどく、美味かった。

 

 小さな、ガラスの灰皿。

 それだけが、今の俺のこの家におけるたった一つの居場所。

 

「居場所、できちまったな」

 

 わざと唇を歪めてそう呟いてみたのだけれど。

 

 

 なぜだか意外と、悪い気はしなかった。

 

 

 

<つづく>

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