親父が帰宅したのは、夜もだいぶ更けてからだった。

 明日の朝ラジオ体操があるという夕実ちゃんは早々に就寝し、俺は一人、手持ち無沙汰を持て余しながら縁側で煙草を吸っていた。

 ガラガラと玄関の引き戸が開く音に、俺はなんとなく立ち上がって玄関に向かう。

 

「お帰り、親父」

 

 無言で家に入ってきた親父が、俺の声になにかはっとしたような表情を浮かべて顔を上げる。

 

「……ああ、ただいま」

「遅かったんだな、いつもこんなに遅いのか?」

「いや」

「飯、台所にあるぜ」

「ああ」

 

 寡黙なところは変わっていない。親父はネクタイを緩めながら俺の脇を抜け、台所に向かう。俺はそんな親父の背中をじっと眺めていた。

 なんて陳腐な感想なのだろうと、自分でも思う。まるで漫画や小説でのお約束のような感想に自分でも気恥ずかしくなる。

 

 それでも、俺は感じずにはいられなかった。

 

 親父の背中。いつの間に、こんなに小さくなったのだろうか――と。

 

 

 

 

 


夕虹 -ゆうにじ-

第四話 ジブンノイバショ

2003/09/01 久慈光樹


 

 

 

 

 なんとなく、台所で一人食事を取る親父の姿を見たくなくて、部屋に戻った。

 

『お布団、敷いておきましたから』という夕実ちゃんの言葉通り、部屋には布団が敷かれていた。

 子供の頃にあてがわれ、そのままこの家を出るまで俺の部屋だったその場所は、だが大して感慨も沸かなかった。まるでどこか知らない民宿の一室をあてがわれたようで、落ち着かない。

 窓を開けると、ポケットから煙草と携帯灰皿を取り出し、一本咥えて火をつけた。もともとチェーンスモーカーの俺であるが、今日は明らかに煙草の量が多かった。これは俺だけに限ったことではないだろうが、煙草は落ち着かないとき、緊張しているときほど、本数が増えるものだ。

 紫煙が夜のしじまにくゆり、消えていく。

 

 やはり、戻るべきではなかったのかもしれない。そんな思考が、頭の片隅を掠めた。

 数年ぶりの家には、もう俺などの居場所は無かったのだ。夕実ちゃんも、親父も、そして涼子さんも、この家で自分たちの生活を営んでいる。

 今はまだいい、涼子さんが入院しているという、「非常時」なのだから。

 非常時であればこそ、俺のような異分子が入り込んでいたとしてもさほど違和感を感じずに済んでいるのだ。これで涼子さんが退院し、普段の生活が再開されれば、そこに俺の居場所などなくなるだろう。

 

 ――それで、いいのだ。

 

 俺はもう、この家の人間ではないのだから。

 短くなった煙草を、携帯灰皿に押し付ける。今日はもう休もう。

 

 お日様の匂いのする布団に入りながら。

 俺は明日にでも母さんの墓参りに行こうと決めていた。

 

 

 

 

 

「……さい…」

 

 どこからか、声が聞こえる。

 

「起きてください」

 

 眠い。

 

「起きてくださいってば」

 

 ゆさゆさと身体を揺すられて、ぼんやりと目が覚めた。

 

「あっ、おはようございます」

 

 真っ先に目に入ったのは天井だった。アパートとも会社のそれとも違う天井。

 ここ、どこよ?

 むくりと身体を起こし、布団の横でちょこんと正座して「朝ご飯できました」と遠慮がちに声をかけてくれるた小さな女の子の顔を、ぼんやりと眺める。

 

「あの……」

 

 眺める。

 

「えっと……」

 

 眺める。

 

「そ、その……」

 

 なぜだか真っ赤になって俯いてしまった女の子に、尋ねる。

 

「……何時、いま」

「えっと、7時半になります」

「……おやすみ」

「わっわっ、寝ちゃダメですっ」

 

 仕事柄だろう、自慢じゃないが俺の寝起きはかなり悪い。「朝は別人格」と言うと爽やかなんだか卑猥なんだか判断に困るようなことをぼんやりと考えながら本格的に寝に入ろうとしたところに、ちょっと泣きそうな声が聞こえてきた。

 

「お兄さん、起きてくださいよぉ」

 

 お兄さん――?

 聞きなれぬ言葉の響きに、何とか意識が少しだけ覚醒した。

 

「おはよう、夕実ちゃん」

 

 

 

 

 せっかく用意してもらったのに悪いとは思ったが、もともと朝飯を食う習慣の無い俺は朝食を辞退して冷たい麦茶を飲んでいた。

 

「もう、お兄さんすごく寝起きが悪いです」

 

 もぐもぐと行儀よくご飯を食べながら、夕実ちゃんがちょっとだけ不満げにそう抗議してきた。

 

「仕事が時間的に不規則だからね、朝は弱いんだよ」

「お前の寝起きの悪さは子供の頃からだろう」

 

 苦しい言い訳を速攻で否定した親父を睨みつけてやったが、そ知らぬ顔でお代わりなぞ所望している。食いすぎだ朝から。

 

「明日からはちゃんと起きてくださいね」と茶碗にご飯をよそいながら言う夕実ちゃんに曖昧な笑みで答えながら、手にしたグラスを呷る。はっきりいって起きられる自信など微塵も無かった。

 

「そうだ、今日は午前中お買い物に行きますけど、何か要る物ありますか?」

「いや、特には無いよ」

「お父さんは?」

「いや、無い」

 

 ふと気付いて訪ねてみる。

 

「そういやここから近くの店までって、結構歩くんだけど。気をつけないと、帽子とか被っていかないと日射病になっちゃうよ?」

 

 ちょっと不思議そうな顔をしていた夕実ちゃんだったが、やがて納得したようにこう返した。

 

「そっか、お兄さんは知らないんですよね」

「え?」

「この近くに、おっきなスーパーができたんです」

「……」

「一昨年くらいだったかな、買い物とかすごく便利になったんですよ」

「そっか」

 

 そんな会話を交わすうち、親父の出勤の時間になった。俺もせっかく早起きしたのだからと午前中の涼しいうちに出かけることにした。

 

 楽しげな朝の会話。

 

 だが居心地の悪さは、最後まで消えなかった。

 

 

 

 

 

「暑いな、ったく」

 

 午後をだいぶまわって暑さも和らいだと判断して家を出たにもかかわらず、陽射しは少しも緩んだ様子が無い。

 どこまでも高い空、競うような蝉時雨、ただ歩いているだけで気が遠くなるような炎天下。

 今年の夏は暑い。そう、あのときもこんな暑い夏ではなかったか――

 

「ただいま、母さん」

 

 母の眠るこの墓地に、俺は数年ぶりに帰ってきたのだ。

 

「少しぬるくなったけど、勘弁な」

 

 手に下げたコンビニの袋から500mlのミネラルウォーターを取り出し、口を開けて墓石にそそぐ。ここに来る途中に買ってきたものだ。俺のいた頃はあんなところにコンビニなど無かった。

 

「だいぶ変わったよな、この街も」

 

 墓石の傍らに腰を下ろし、懐からいつものように煙草を取り出し、火をつける。煙草など吸うようになった俺を見たら、母さんはなんて言うだろうか。やはり怒られるだろうか。

 

「親父に会ったよ、老けててびっくりした」

 

 さあっと風がふいた。

 

「夕実ちゃんにも会った、晩御飯つくってもらったよ」

 

 遠くの入道雲から、ゴロゴロと雷鳴が聞こえてきた。

 

「……あの人にも、会った」

 

 陽射しが少しだけ、かげったような気がした。

 あれだけうるさかった蝉の声も、少しちいさくなってきていた。

 ぽつりと、呟いた。

 

「ここに来るために、戻ってきたのかな、俺」

 

 母さんの苗字が彫られたただの石の塊は、なにも言葉を返してはくれなかった。

 なにも。

 

 

 

 

 

 明日の電車で、向こうに戻ろう。帰り道、俺は密かにそう決心していた。

 長居すべきじゃない、してはいけない。なぜだかそんな気がしていた。この街にはまだ子供だった頃の俺のすべてがあって、でもだからこそ何も無い。俺の居場所はどこにもない。ここにいては、いけない。

 

 母さんの前でほんの少しだけ言葉を発して、解ってしまった。

 俺は結局、ここ数年間で何一つ変わることができなかったのだ。

 

 母さんの面影をひきずって、新しい母親になってくれる人を受け入れることができず、辛い言葉で幼い義妹を傷つけてしまった餓鬼だった俺は、歳を重ねても何一つ変わることなく、変えることができぬまま、この地を訪れてしまったのだ。

 まだ早かったのだ、帰ってくるのには。

 いや、これから先だって変わることなどできないかもしれない。だけど、今の俺ではまた繰り返してしまう。親父や、夕実ちゃんや、あの人――涼子さんの日常を、壊してしまう。

 俺はここに居るべきではない――

 

 

「って、それも言い訳か」

 

 夕立ちの前触れだろうか、だんだん近くに聞こえてくる雷鳴を耳に、吐き捨てるようにそう呟いた。

 

 欺瞞だ。解っている、本当はそんなの、ただの欺瞞。

 ここに居るべきじゃない? 皆の生活を壊してしまう?

 はっ! お笑いだ、本当にそんな奇麗事でここを去ろうとしているのだと、自分自身すら騙せないくせに。

 

 怖い。そう、俺は怖いんだ。

 

 どんどん変わっていく街並み、俺の知っていた街から少しずつ少しずつ変わっていく故郷。夕実ちゃんと親父のちょっとした会話の節々に感じる違和感、俺の知らない家族の会話、どんどん居心地の悪くなる我が家。

 それらを実感するたびに、俺は怖くなったのだ。

 知らない女の子が妹になると知ったあの時のように。

 

 

 あの人が、俺の母さんになると知ってしまった、あの時のように――

 

 

 

 いつの間にか降り出した夕立が、空を、街を、俺の身体を。

 冷たく、濡らした。

 

 

 

 

<つづく>

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