夕虹 -ゆうにじ-
第三話
2002/06/07 久慈光樹
帰りのタクシーの中、相変わらず会話はなかったけれど、行きの車中のような息苦しい雰囲気はなかった。
夕実ちゃんもまだ若干緊張しているみたいだったが、それでもガチガチというわけでもなく、窓の外を流れる景色を見たりしている。
やがてタクシーは家に到着した。
「ただいま」
玄関を開け、きちんとそう口にする夕実ちゃん。涼子さんの躾が行き届いているのだろう、行動の節々に礼儀正しさが伺える。
いい子だな。
自然と、そう思った。
そして気付けば
俺もつられるようにその言葉を口にしていた。
「ただいま」と。
おばさんがいるかと思ったのだが、家にはだれもいなかった。きっと晩御飯の支度でもしに戻ったのだろう。
「ごはんはどうしてるの」
ふと気になって、夕実ちゃんに聞いてみる。涼子さんがいないのだ、誰が食事の支度をしているのだろうか。
「柿本のおばさんが作ってくれます」
「そっか」
柿本のおばさんというのは、隣のおばさんのことだ。
「たまに……」
「え?」
「あの、たまにわたしも、作るんです」
薄っすらと頬を染めて、恥ずかしそうに夕実ちゃん。
そういえば、こうして自発的に話をしてくれたのはこれが初めてじゃないだろうか。
俺は少し大げさに驚いてみせる。
「ええ?! そりゃあすごい!」
……大げさすぎたかもしれない。
「そ、そんなことないです」
「いやいや、俺なんて一人暮らし長いけど未だに作れるのはインスタントラーメンとチャーハンくらいだよ」
「そうなんですか?」
「ああ、しかもこのあいだチャーハン作ったら油入れすぎちゃってさ、もうギトギト、ありゃチャーハンじゃなくてチャハーンって感じだったよ」
ジェスチャーを交えて少し大げさに話をする。夕実ちゃんは可笑しそうにくすくすと笑いながら話を聞いてくれている。
ああ、やはりこの子は笑顔がよく似合う。
「そうだ、いっこお願いしていいかな」
「は、はい、なんですか」
「今日の晩飯、夕実ちゃんが作ってくれない?」
「えっ! で、でも……」
「おばさんには俺から伝えとくからさ、だめ?」
「……いえ、わかりました、わたし作ります」
「おっ、言ってみるもんだ」
「もぅ!」
ちょっぴり拗ねたように口を尖らせて、すぐに楽しそうに笑う。俺もまた、笑顔だった。
内心、胸を撫で下ろしていた。
このくらいの歳の子と話す機会なんてなかったから不安だったが、この先一週間、何とかなりそうじゃないか。
「わたしからもひとつ、お願いしていいですか」
笑いを収め、夕実ちゃんはそんなことを言った。不安と期待がないまぜになったような、そんな表情で。
「ん? なに?」
「あの……」
しばらく迷っていたようだったが、やがて意を決したように、彼女は言った。
「お兄さんて、呼んでもいいですか」
「おにいちゃんてよんでもいーい?」
忘れかけていた、いや、忘れようとしていた記憶。実際に忘れることができていた記憶。
呼び起こされたその記憶に、一瞬にして俺は捕らわれ、翻弄される。
なぜあの時、俺はあんなことを言った。
なぜ「いいよ」と答えてやらなかった。
あの子が悪かったんじゃない、あの子のせいじゃなかっただろう。
俺はあの子に対し、なんて答えた。なんと言った。
「……だめ、ですか」
夕実ちゃんの声で、我に返る。
ひどく悲しそうな表情が、あの時と、被った。
「だめじゃない!」
「……!」
思わず叫んでしまい、びくりと身を震わせた彼女に、またしても我に返る。
「あ、ご、ごめん、いいよ、呼んでくれて構わない」
慌てて言い直した俺のその言葉に、夕実ちゃんは安堵したように深く息を吐き出し、そしてまたあの笑顔になって言った。
「ありがとう、お兄さん」
俺は
その笑顔を正面から見ることができなかった。
台所から味噌汁のいい匂いが漂ってくる。約束どおり、夕実ちゃんが晩ご飯の支度をしてくれている。
俺は一人、縁側に腰掛けて煙草をふかしていた。
一人暮らしを初めてすぐに、煙草おぼえた。最初はいつでもやめられるからと興味本位だったが、気が付けばこれなしではいられないようになっていた。健康に悪いと思いつつ、今では日に2箱以上消費する立派なヘビースモーカーだ。
だが、今は何の味も感じられなかった。機械的に紫煙を肺に送り込む作業を繰り返しているだけだ。
先ほどの、兄と呼ぶことを許された夕実ちゃんの笑顔。
なぜ俺は、あの時に先ほどと同じ答えを返してやれなかったのか。
親父から再婚の話を聞いたのは、俺が高校3年の夏の事だった。
隣町の大学を志望し受験勉強も佳境だった俺に、そんな話を無造作にするあたりが親父らしいと言えるかもしれない。
俺は――反発した。
俺の母さんは死んだ母さん一人だけで、他の他人が母さんになるなんて考えられなかったし、考えたくもなかった。
考えてしまったら、それは俺が死んだ母さんを裏切ることになると、そう思っていた。
だから再婚するという親父が酷く薄情な人間に感じられて、責めた。母さんのことを忘れてしまうつもりかとなじった。
気に食わなかった。
柄にもなく俺に気を遣う親父の優しさも、穏やかな涼子さんの笑みも、そして彼女の連れ子だった夕実ちゃんの無邪気な笑顔すらも。
何もかもが、気に食わなかった。
餓鬼だった。どうしようもないくらいに、餓鬼だったのだ。
初めて会ったとき、当時まだ4歳かそこらだった夕実ちゃんは俺にこう言った。
「おにいちゃんってよんでもいーい?」
無邪気な笑み、初めて会ったはずの俺を無条件に信頼している瞳。
その瞳に、どうして俺はあんなにもいらついたのだろう。
本当は、俺は解っていたのかもしれない。
俺はただ怖かっただけなんだ。
17歳の俺は、見ず知らずの人を母と呼び、妹と呼ぶことを恐れていただけだったのだ。
だけどそんな臆病な自分を認めたくなくて、拒絶という壁を作って自分を守っていただけだったのだ。
そしてその壁を、幼さゆえに軽々と乗り越えてきた夕実ちゃんにいらつき、俺は……
「俺に妹なんていない!」
泣き顔に歪んでいく幼い夕実ちゃんの記憶を振り払うように、もうだいぶ短くなった煙草を携帯灰皿に押し付ける。
時が戻せるのなら、あの時の、図体ばかりでかくて精神が伴っていない餓鬼の俺を殴りつけてやりたい気分だった。
「お兄さん、ごはんできました」
新しい煙草に手を伸ばしたところで、夕実ちゃんの遠慮がちな声がかけられる。
「あ、ああ」
半分くらいに減った煙草の箱と携帯灰皿をポケットにしまう俺を、夕実ちゃんは凝視している。その視線に気付き、問い掛けた。
「なに?」
「たばこ」
「え?」
「たばこ、吸うんですね」
「あ、ああ、ごめん」
てっきりにおいを嫌ったのだと思い謝ったが、夕実ちゃんはふるふると首を振る。
「いえ、いいんです、気にしないでください」
「……ええと、親父は?」
なんとなく気後れしてしまい、話を逸らす。
「あ、さっき電話があって、お父さんは今日は遅くなるそうです」
「……」
「お兄さん?」
「あ、いや…… そう」
お父さん。
そう、俺は夕実ちゃんが親父のことをそう呼んだことに、戸惑いを感じていたのだ。
それが何ら、おかしなことではないにも関わらず。
「夕実ちゃんさ」
「はい?」
「夕実ちゃんは、親父……お父さんのこと、好きかい?」
俺は、何を聞いているのだろうか。そんなことを聞いてどうするのだろうか。
夕実ちゃんから返ってくる言葉など、わかりきっているだろうに。
「わたし、お父さんのこと、大好きです」
ああ
やっぱりか
「そっか、ごめんね、変なこと聞いて。さて、じゃあ夕実ちゃんの料理を堪能しようかな」
「あ、あんまりおいしくないですよ……」
「ふっふっふー、楽しみだなー」
「もぅ、お兄さんのいじわる!」
夕実ちゃんと明るく笑い合いながら俺は――
この家では、自分はひどく場違いな人間なのだと
そう、感じていた。