夕虹 -ゆうにじ-

第二話

2002/06/06 久慈光樹


 

 

 

「……病院はどこ?」

 

 内心が表情に出ないように意識しながら、おばさんに問う。その努力が成功していたかどうかはわからなかったが、おばさんは何事もなかったかのように答えてくれた。

 

「ああ、裕ちゃんが東京に行ってから御影の丘の上にでっかい総合病院が建ったんだよ」

「へえ、そうなんだ」

「ちょっと遠いからね、いまハイヤー呼ぶから待ってな」

 

 そう言って廊下にある電話機に向かうおばさん。ハイヤーはないよな、いまどき。

 苦笑しつつ見守っていた俺だが、ふと視線を感じて頭を巡らす。

 

「あっ……」

 

 襖の隙間からこちらを伺っていたであろう夕実ちゃんと目が合った。慌てて隠れる様がおかしくて、ちょっと笑う。

 家を飛び出した挙句にのほほんと戻ってきた兄の顔でも見てやろうってとこだろう。

 

「少ししたら来てくれるってさ。あっ、そうだ」

「え?」

 

 何かを思いついたらしいおばさんの声に、襖に向けていた顔を戻す。

 

「ちょうどいいから、夕実ちゃんもいっしょに連れていっておやりよ。夕実ちゃん、夕実ちゃーん!」

 

 俺の返答も聞かずにおばさんはまた忙しなく席を立つ。

 俺は別に構わないけれど、こんな見も知らぬ大人といっしょに行こうなんて思わないだろう、きっと。

 

「夕実ちゃんも行くってさ」

 

 だが意外なことにそうはならなかったようだ。

 見知らぬ他人と同行する息苦しさよりも、母恋しさが勝ったといったところだろうか。

 相変わらずおばさんの付属物のようにぴったりと後ろに隠れる夕実ちゃんを眺めながら、俺は自分のほうこそその息苦しさに辟易している事に気付き、苦笑する。

 まったく大人げ無いな。

 

 

 

 

 しばらく待つとタクシーが到着し、俺と夕実ちゃんは並んで後部座席に座る。そしておばさんに見送られながらタクシーはゆっくりと走り出した。

 御影の丘のあたりにできた病院ということは、車だと20分くらいか。

 窓枠に手をついて外を眺めるフリをしながら、目線だけで隣の夕実ちゃんを盗み見る。

 まるで面接を受ける新入社員のように、きつく結んだ両手を膝の上に置き、少し俯き加減に自分の膝のあたりをじっと見つめている。緊張しているんだろう、ガチガチだ。

 俺も沈黙が息苦しかったが、それでもまあ目の前のこの子をこっそりと観察するくらいには余裕があった。

 こう見るとなかなか可愛い顔立ちの子だ、背中くらいまで伸ばした髪の毛はよく手入れされているのか艶やかだ。田舎のこの街にしてはちょっと垢抜けた感じがした。

 背丈はまあこの年齢の子としては標準くらいか、俺のちょうど胸のあたり程度だろう。

 

 どことなく…… いや、明確にあの人の面影がある。

 当然か、血の繋がった母娘なんだから。

 そして俺には全然似ていない。

 それも当然か、戸籍上は兄妹でも、俺とは何の血の繋がりも無いのだから……

 

 俺の視線を感じたのか、夕実ちゃんは先ほどよりも明らかに身を固くしていた。

 何か話さないといけない気がして、俺は車に乗ってから初めて口を開く。

 

「夕実ちゃんさ」

「は、はいっ!」

 

 ビクッと全身を振るわせて返事をする。

 まるで小動物だなこりゃ。苦笑しながら、俺は言葉を続けた。

 

「いま何年生?」

「小学校5年生です!」

「というと、10歳?」

「えと…… じゅ、11歳です」

「そっか」

「……」

 

 それっきり、会話が続かない。

 そうか、確か俺と14年違いだったから、11歳になるのか。

 

 

 小学校5年生、か。

 

 

 母が――俺を生んでくれた母さんがこの世を去ったのも、俺が小学校5年生の夏だった。

 

 普段から、病気がちな母だった。入退院は茶飯事だったし、あの夏も母さんは体調を崩して近くの病院に入院していた。

 夏休み、俺はあの広い家で一人、母さんの帰りを待っていた。

 隣の音ちゃん――彼女は当時、小学校に入学したてだった――にプールに行こうと誘われたのだけれど、なぜだかそんな気になれなくて、一人で家に居た。

 母さんが入院して家に居ないなんて当時はあまり珍しい事ではなかったのに、なぜかその日に限って俺はどこにも遊びに出る気になれず、ずっと家にこもっていた。

 今にして思えば、それは俗にいう「虫の知らせ」というものだったのかもしれない。

 

 昼過ぎ、家に一本の電話がかかってきた。会社に行っているはずの親父からだった。

 

「母さんの容態がよくない」

 

 ああ、なるほど。

 今回俺がこの街を訪れる原因となった親父からの電話。あの時に感じた強烈な既視感の正体はこれか。

 あの時と、まったく同じ言葉だったんだな。

 

 とにかく、俺は親父に呼び出され近くにあった母さんの入院する病院まで走った。

 幼いながらに何か大変な事が起きているということはなんとなくわかったから、とにかく走った。

 近くだったし急いで走ったから、俺が電話を受けて病院に到着するまでは10分とかからなかっただろう。

 

 

 だが、俺が病院に着いたときには母さんはもう事切れていた。

 

 

 これは後で知ったことだが、母さんの身体はもう夏を越えられないとわかっていたらしい。母さん自身もそれを知っていたのだそうだ。知らないのは俺一人だったというわけだ。

 

 それからのことは実はよく覚えていない。

 悲しかったはずなのに、泣いた憶えもない。葬儀のときなどは音ちゃんの方が泣いて大変だったほどだ。

 今にして思えば、母さん子だった俺にはショックが大きすぎたのだろう。無意識の内に、母さんの死という現実から目を逸らしていたのだろう。

 やっと実感できて泣いたのは、母さんの葬儀も終わって数日経ってからだったのだが、それすらも実はあまりよく覚えてはいないのだ。

 

 その後、隣のおばさんや音ちゃんのおかげで俺は母さんの死という現実を乗り越える事ができた。あの二人にはいくら感謝しても足りないくらいだ。

 そうして俺は特別ひねくれることもなく、中学生になり、高校生になり。

 

 そして高校三年になったばかりの春に、父に再婚の話が上がった……

 

 

 

「お客さん、着きましたけれど」

 

 タクシーの運転手の声で、我に返った。

 気付くと病院に到着していた。ちょっと思い出に浸りすぎたようだ、隣に座った夕実ちゃんもちょっと不思議そうにこちらを盗み見ている。

 

「ああ、ありがとう」

 

 手持ちからタクシー代を払い、車を降りる。

 

「病室は知ってる?」

 

 俺から微妙に距離を取っている夕実ちゃんに訪ねる。

 離れすぎず、近すぎず、まるでいまの俺たちの関係を表しているかのように、実に微妙な位置関係。

 夕実ちゃんは俺の問いにこくりと頷くと、そのまま病院に向かう。俺はその後を素直についていくことにした。

 微妙な位置関係を保ったままで。

 

 

 

 

 あの人が入院していたのは、内科の病棟だった。

 夕実ちゃんの後についてしばらく歩き、やがて病室に着いたらしい。

 6人の集団病室、入り口の名札に「秋山涼子」の名前があった。

 

「お母さん!」

 

 嬉しそうに。本当に嬉しそうに。

 夕実ちゃんは、ベッドに体を起したあの人の元に駆け寄る。

 

「夕実?」

 

 夕実ちゃんが一人で病院まで来たと思い驚いたのか、それとも他の理由か。彼女は驚きに彩られた顔で我が子を抱き寄せ、そして病室の入り口に立つ俺を見止めて更に驚いた顔つきになる。

 

「裕也さん……」

「お久しぶりです、涼子さん」

 

 涼子さん。

 俺のその呼び方に、彼女の表情がほんの一瞬だけ曇る。きっと期待した呼び方ではなかったのだろう。

 

 

 ……なぜ、嫌味たらしくわざわざ名を呼ぶ必要があった。

 

 

 車中、母さんのことを思い出していたからか?

 内心で歯噛みする。

 いったい幾つになったんだお前は、これじゃまるで聞き分けのない拗ねた子供みたいじゃないか。

 俺は……

 

「わざわざごめんなさいね、裕也さん」

 

 柔らかな声に、どこまでも落ちていきそうだった俺の思考は寸断される。

 知らず俯き加減になっていた顔を上げると、ベッドから身体を起した涼子さんが俺を見ていた。

 先ほどの表情を微塵も感じさせぬ笑みで。

 

「そうだ、これお見舞いです」

 

 内心の葛藤を振り払うように、東京駅で買ってきた菓子折りを手渡す。

 

「あら、そんな気を遣わなくてもよかったのに」

「いえそんな大したものじゃないですから」

「ありがとう、いただくわ」

「思っていたよりお元気そうで、安心しました」

「そんなに大したことはないのよ、ほとんど検査のために入院したようなものだもの」

「でもお身体には気をつけてください」

「ありがとう、裕也さん」

「いえ」

 

 噛み合わない。

 自分で話していて、そう感じる。

 

 一見、何の変哲も無い入院患者と見舞い客の会話。

 何も事情を知らない他人が見れば、職場の人間あたりが見舞いに来ているとでも思うのかもしれない。

 

 そう、どう見ても――

 

 

 母と息子の会話ではない。

 

 

 

 

 ふと。

 涼子さんの脇に立つ夕実ちゃんが目にとまった。

 母親の側にいることで安心したのか、いままでに比べて格段に緊張の色は薄い。少し興味深く俺のことを観察しているようだ。目が合い、慌てて逸らす様が可笑しかった。

 俺が夕実ちゃんを見ていることに気付いたのか、涼子さんが彼女の頭を撫でながら言う。

 

「そういえば、夕実はお兄ちゃんと会うのは随分久しぶりね」

 

 上目遣いでこちらをチラチラと伺いながら、夕実ちゃんは躊躇いがちに頷く。

 

「久しぶりというより、夕実ちゃんは憶えてないんじゃないかな? まだ小さかったから」

 

 最後にこの子に会ったのは、まだこの子が保育園に通い始めた頃ではなかったか。

 俺のことなど憶えているはずも無い。そう思った。

 だが意外な事に、夕実ちゃんは首を振る。

 

「あの…… わたし、覚えてます」

「え? そ、そうなんだ」

「よく…… 憶えてます」

 

 夕実ちゃんは結局それっきり何も話さず、俺もなんとなく言葉を接げなかった。涼子さんもなにも話さない。

 奇妙な沈黙は、診察に来た看護婦さんの声に破られるまで続いた。

 

「じゃあ、俺はこれで」

「こっちには、いつまで?」

「一週間ほど会社は休暇をとりました、また明日来ます」

「そんなに気を遣わないで、ゆっくりしていってちょうだい」

「はい」

「ああ、申し訳無いけれど、夕実をまた家までお願いできるかしら」

「わかりました、行こう、夕実ちゃん」

「……はい」

 

 夕実ちゃんは名残惜しそうだったけれど、俺の言葉に素直に頷く。

 

「お母さん、また来るね」

「ええ、ちゃんとお勉強しなきゃだめよ」

「はーい」

 

 ああ、親子の、母娘の会話だな。そう思った。

 俺と涼子さんには無いもの、もう望めないもの。

 

 だが俺は不思議と暖かなものが胸に満ちてくるような感触を味わっていた。とても心地のよい暖かさ。例えるならば春の陽射しのような、そんな、暖かさ。

 だからだろうか。

 病室を出てから夕実ちゃんに自然とこう言うことができた。

 

「また明日来ようね」

 

 少し驚いたような顔をした後で、夕実ちゃんはまるで花が咲くような笑顔になって元気よく返事をしてくれた。

 

「はい!」

 

 

 

 その笑顔を見て

 俺はこの街に戻ってきて初めて自然に笑う事ができたような気がした。

 

 

 

<つづく>

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