電車を降りて俺がまずしたことは、辟易することだった。
「あ、暑い……」
正直、タカを括っていたのだ。
都心部のあの猛烈な暑さと湿気に慣れている俺は、故郷である山間部のこの街はさぞや快適だろうと想像していた。
それがどうだ。
確かに湿気は少ない、カラッとした気持ちのいい暑さと言えるかもしれない。
だが、暑いものは暑いのだ。ひょっとしたら気温だけで言えば東京よりも上なんじゃないだろうか。
「ああいかん、眩暈がしてきた」
大きなショルダーバックを抱えてホームで行き倒れなんて様にならない。
慌てて駅の待合室まで早足で歩き始めた。
数年ぶりに帰省した故郷の地で。
蝉の音が、うるさいくらいに俺を包んでいた。
夕虹 -ゆうにじ-
第一話
2002/06/06 久慈光樹
「へぇ……」
広くはないが、冷房のよく効いた小奇麗な待合室に足を踏み入れ、俺は少し感心して声を上げる。
俺の記憶ではこの駅はもっと閑散としてオンボロだったはずだ。改装されたのだろう。
どちらにせよ、助かった。
着替えやら何やらの入ったくそ重たいショルダーバッグを無造作に床に置き、手近な椅子に腰を下ろす。やっと人心地ついた気分だ。
ポケットから引きずり出したシワシワのハンカチで吹き出る汗を拭いながら、俺はこの街にまた帰ってくることになった一本の電話に思いを巡らせていた。
それは、唐突だった。
電話なんてものはえてして唐突なものだ、だがここ数年来一度もかかってくることのなかった親父からの電話ともなればそう感じたのも当然だろう。
口下手な親父らしく、電話の内容は簡潔だった。
「母さんの容態がよくない」
素っ気無いその言葉を聞いたとき、俺は時が十数年も逆行したような感触を味わった。
奇妙な既視感はだがすぐに消え、事情は飲み込めた。
「悪いのか?」
「いや、だが一応大事を取って入院させた」
「そうか」
「一度くらい、見舞いに来い」
俺の予定もなにも聞かず、用件だけ伝えて電話は切れた。
俺もあまり口が上手な方ではないから、会話が弾もうはずもない。ましてや大学進学の際に半ば家出も同然に東京に飛び出してきた身ともなれば、なおさらに。
電話の切れる間際、親父は一言だけ付け足すように、こんなことを言った。
「お前の母さんなんだからな」
その言葉を聞いて、俺は自分で激昂するものだと思った。客観的に見て、俺は激昂してよかった。
だが……
「ああ、そうだな」
俺の口から漏れたのは、そんな心をどこかに置き忘れてきたような、感慨の無い言葉だった。その返答を聞き、しばらくじっとなにかを考えているような間があり、そして電話は切れた。
親父が電話の向こうでどんな表情をしていたのか、俺にはわからなかった。
そんなわけで、ちょうどお盆の時期と重なったこともあり俺は思いきって勤め先に一週間ほどの休暇願いを出したのだ。
仕事はまあ忙しかったが、俺一人が居なくて回らなくなるほどではない、家族の体調不良を盾にとって押し通した。割を食った後輩連中には土産物の一つでも買っていってやることにしよう。
さて、そろそろ動こうか。
居心地のいい待合室から出て、あたりを見まわす。
むっとする熱気が一気に押し寄せてきて、すぐに嫌気が差した。
「くそ暑い……」
とにかく移動しよう、都合のいいことに2台ほどタクシーもいる。まずはいったん実家に行ってみることにする、病院に行くにせよまずは荷物を置いてからだろう。
この街にいた頃は一度も利用などしたことがないタクシーに乗り込み、俺は家の場所を運転手に告げたのだった。
高校卒業までを過ごしたその家は、あの頃となにも変わらない様相でそこに在った。
時がまるで10代の頃に戻ってしまったような錯覚に襲われ、俺はしばらく動く事もせずじっと家を見上げる。
古ぼけていてそのくせ無駄に大きな門構え、子供の頃は大嫌いだった。
幼い頃はまるで威圧するようだったこの門を、たいして大きいとも感じなくなったのはいつの頃だったか。
この門をくぐれば、父とキャッチボールをした中庭がある。
母と共にスイカを食べた縁側がある。
幼き日に過ごした全てが、この家にある。
過去に捕らわれそうになった俺を現実へと引き戻したのは、うだるような暑さでも刺すような陽射しでもなく、その門の脇に掛けられた表札だった。
そこには――
父の名と、そして俺の子供の頃の記憶とは違った名前が2つ、並んでいた。
「ただいま」とは、なんとなく言えなかった。
それでもチャイムを鳴らすほど卑屈にはなれなくて、俺はただ無言で引き戸を開ける。
親父はきっと会社だろうから、恐らくは誰も居ないだろうと思っていたのだが、それは間違いだった。
引き戸を開く音を聞きつけたのだろう、家の奥から小さな足音を響かせて出てきたのは、10歳くらいの小さな女の子だった。なんだかとても嬉しそうな顔で、一目散に駆けてくる。
「あっ……」
恐らく、俺は期待していた客ではなかったのだろう。
その女の子は俺の姿を視界に収めると、そのまま固まってしまった。対する俺も予想外の出来事に動く事もできずにいる。
「夕実ちゃん、お客さん?」
二人して置物みたいに固まっていると、奥からそんな声が聞こえてきた。
ああそうか、この子が……
夕実。
門の表札にあった、三人の名前の内の一つ。
やがてドタドタと豪快に足音を響かせて、年の頃は40歳くらいの恰幅のいい女性が出てきた。
ああ、覚えている、そういえばこんな風に両親が家を留守にするときには、よく来てもらっていたものだ。
「おばさん、お久しぶり」
そう言う俺の顔をしばらく唖然としたように見ていたおばさんだったが、やがて満面の笑みと共に俺を迎えてくれた。
「あらー、裕ちゃんかい、おばさん見違えちゃったよ!」
そう言ってバシバシと背中を叩かれる。痛い……
夕実と呼ばれたあの女の子は、まるで俺から隠れるようにサッとおばさんの後ろに身を隠していた。
「ほらほら夕実ちゃん、お兄ちゃんにお帰りなさいは?」
お兄ちゃん、か。
思わず冷笑が浮かびそうになり、苦労してそれを隠す。この子に当たってどうするんだ、バカめ。
なかなかおばさんの後ろから出てこない夕実ちゃんを気遣い、俺のほうから挨拶することにした。
「こんにちは夕実ちゃん、大きくなったね」
我ながらなんて陳腐。
大きくなったねも何も、小さい頃に数回見ただけだろう。
「こんにちは」と蚊の鳴くような声で呟いて、夕実ちゃんはまたおばさんの影に隠れてしまった。やれやれ、嫌われたものだ。
「夕実ちゃん照れちゃってるんだよ、さ、お上がり、ってここは裕ちゃんの家だったねえ」
わっはっは、と豪快に笑うおばさんに促され、俺は数年ぶりに実家の敷居をまたいだのだった。
「すっかり立派になって」
居間に通され、冷たい麦茶を出してもらいながら、しばらくおばさんと話をする。夕実ちゃんの姿は見えない、どうも徹底的に嫌われたようだ。
隣の家に住むこのおばさんには、小さい頃から随分とお世話になっている。
俺が家を出たあたりの事情も恐らく知っているのだろうが、そのことには触れずにいてくれるのが今はありがたかった。
「裕ちゃんは幾つになったんだっけ?」
「今年で25」
「あれー、もう25になるんかい、そりゃおばさんも歳とるはずだわ」
またも「わっはっは」と豪快に笑うおばさん。
「うちの音美もお盆で帰ってくるって言ってるから、うちにも顔出してね」
「音ちゃん今どうしてるの?」
おばさんの娘の音美ちゃんか、懐かしいな、小さい頃はよく遊んでやったもんだ。
「今は隣町の大学に通ってるよ」
「そっか、音ちゃんもう女子大生か」
そうだよな、俺がもう25になるんだ、当たり前か。
しかしあの音ちゃんが女子大生ね。先ほどのおばさんではないが、俺も歳をとるわけだ。
「裕ちゃんはいつまでこっちに居られるの」
「一週間くらいかな」
「たった一週間かい? もっと居ればいいのに」
「仕事が忙しくてね」
その後も仕事は大変か、とか食べる物はきちんと食べているか、であるとか色々と聞かれ、俺はその都度適当に応える。
まるで母親のように口うるさいおばさん。だが俺はそれを決して不快に思ってはいなかった。
そう、もうこうして俺のことを無心に気遣ってくれる人など、おばさん以外にはいないのだから……
「お母さん入院してから夕実ちゃん寂しがっちゃってねぇ、時々こうやって様子を見に来てるんだけど、お兄ちゃんが帰ってきてくれたから安心だわ」
そうか、だからか。
さっき玄関先で顔を合わせたときに、妙に嬉しそうだった様を思い出す。きっと母親が帰ってきたとでも思ったのだろう。だからあんなに嬉しそうな顔で一目散に駆けてきたんだな。
「ああいけない、すっかり話しこんじゃったよ。お母さんのお見舞いに来たんだろ」
おばさんのその言葉で、俺はこの街に帰ってきた理由を思い出した。
そう、俺は見舞いに来たんだ。
・・・
あの人の、見舞いに。