プロフェッショナル
2001/01/27 久慈光樹
「ふぅ、今日もさっぱりね」
ティアはため息混じりにそう呟いた。
「まいったわ、これじゃ明日のパン代にすらなりゃしない」
懐に大切にしまわれている袋には、その程度の金額しか入っていなかったのだ。
幾度目かのため息。
「お腹空いたな……」
年頃の娘がため息をつきながら漏らすにしては、なんとも色気のない台詞である。
絵の道具を道端に広げ、座りこんでいるのは、別に風景画を愉しんでいるわけではない。
似顔絵書きをしているのだ。
絵を頼みに生きていくのは容易ではない。
いつの世も才能を開花させる事ができるのは、ごく限られた一部だけであり、大半のものは生活に追われ生きていくのがやっとである。
ティアもまた、似顔絵書きを始め、小間使い、荷物運び、果ては窃盗に至るまで、生きるためには何でもした。
身体だけは絶対に売らなかったのは最低限のプライドであったが、単にそこまで追い詰められていなかっただけに過ぎない。
決して豊かとは言えないこの街のこと、似顔絵に散財する物好きは、そう多くは無かった。
「あっ! そう言えばもう月末…… まずいわ、今度家賃滞納したら追い出されるかも……」
ティアの前途は洋々というわけにはいかないようだった。
昼を少し過ぎた頃、ティアの前に置いた椅子に座る影。どうやらお客のようだ。
「あ、いらっしゃいま……!」
大家になんと言い訳しようか考えていたティアは、慌てて声をかけようとして、そしてその言葉は途中で止まった。
お客が見知った顔だったからだ。
「また会ったな」
年の頃は20代後半、目の前で面白くもなさそうにティアを見る青年は、あの贋作描きであった。
「何の用よ?」
少し前の絵について討論した時の記憶が甦る。ティアの声が刺々しくなるのも仕方のないことだった。
「ご挨拶だな、似顔絵を描くのではないのか?」
「え?」
「1枚描いてもらおうか」
そう言ってコインをティアに向けて放る。
「え? わっ!」
反射的に受け取ってしまった。
気に食わないが、仕方がない。これも生活の為だ。
「お金は書き上がってからで結構です」
そう言ってコインを返す。できあがった絵を見て、気に入ったら払ってもらう。それがティアのやり方だった。時には気に入ってもらえず、お金を払ってもらえなかった事もある。
潔癖さ、純粋さ、そして甘さ。
良くも悪くもティアは17歳の少女だった。
「紙はこちらの普通の紙と、上質の紙がありますが、どちらになさいます?」
わざと丁寧語で話しかけるのは、青年に対して敬意を払っているのではなく、単なる嫌がらせだ。
だがそんなことは意に介さず、青年は上質の紙に描くように告げた。
「それでは描きますから、しばらくそのままの姿勢でお願いします」
そう言って似顔絵に専念する。
改めてじっくりと対象である青年の顔を観察する。
まずは全体の輪郭を掴み、次に目、鼻、口などのパーツを把握する。
改めてみると、青年は整った眉目の持ち主であった。街を歩けばすれ違う女性が10人のうち7、8人は振りかえるであろう。
もっともティアはこの青年が性格的に最悪であることを知っていたから、そんなことは微塵も思わなかったが。
そんなとりとめのないことを考えながら、描き進める。
書き上げるまでのスピードも、似顔絵には大切なことであった。
かといってそれにより質を落としては本末転倒である。しかも今はこの青年が相手なのだ、下手な絵は描けない。
20分ほどで似顔絵は完成した。
「できました、いかがですか?」
完成した似顔絵を、青年に手渡す。
青年は手渡されたそれを、吟味するように見やる。
ティアは自分が思いのほか緊張している事に気付いた。
それは生徒が問題の解答を教師に採点してもらっている時の気持ちに近かったかもしれない。もっとも学校など行った事もないティアには分からなかったかもしれないが。
やがて青年は、一つ鼻を鳴らすと手にした似顔絵をティアに向けて放り、言い放つ。
「失格、だな」
「!!」
息を呑むティア。
そこそこ巧く仕上がったと自負していただけに、その衝撃は大きかった。
やがて衝撃が去ると、むくむくと怒りが湧き上がってくる。
なんのことはない、この青年は難癖を付けに来ただけのことなのだ。この前の議論を根に持っていたのかもしれない。
ティアはそう信じた。
「言ってくれるわね……」
意識して押さえられた口調に、ティアの怒りが大きい事が知れる。
「確かにあなたの技量からすれば、取るに足らない絵かもしれないわ、でもそこまでけなされるほど私の絵は酷い?」
だが青年は、ティアの怒りなどどこ吹く風といった様子で答えた。
「勘違いするな、私は別にお前の技量うんぬんについて言っているのではない。これだけの短時間で描いたにしてはその絵はよくできている」
思いもしなかった誉め言葉に戸惑いながらも、ティアは語調を緩めずに再度問い返した。
「じゃあこの絵のどこが失格なのよ」
「デッサン画としてはよくできている、だが似顔絵として金を取る分にはその絵は失格だ」
「金を取るほどの絵ではないと言うこと?」
「そうではない」
青年はそれだけ答えると、少し考え込むような仕草をした後、先ほどティアが返した額の倍のコインを投げてよこした。
「な、何よ?」
「代金だ」
「バ、バカにしているの? しかも倍も……」
「もう一枚分の代金だ、だが今度は私に描かせてもらおう」
困惑するティアだったが、青年の強引さに押しきられるように場所を代わる。
「……何をしている、早く座れ」
「え、え? 私を描くの?」
「あたりまえだ、他に誰がいる」
「う…… わ、わかったわよ」
なぜか顔に血が上るのを自覚しながら、椅子に座る。似顔絵を描くことはあっても、描いてもらうのは初めてだった。
青年は画材の様子を一通り確認した後、新たな紙をモーゼルにセットして、それからティアの顔をじっと見る。
その真剣な視線にまたしても顔が紅潮するのを自覚して、ティアは顔を伏せてしまう。
「動くな」
「わ、わかってるわよ!」
それでも少しすると慣れてきて、似顔絵を描く青年を逆に観察する余裕も出てきた。
青年は、真剣だった。
絵に対する真摯さという点で見れば、ティアに勝るとも劣らない。
ティアがたかが似顔絵といって絶対に手を抜かないのと同様に、青年も真剣に取り組んでいる。
色々と気に食わない男だが、少なくとも絵に対する情熱だけは認めないわけにはいかないようだった。
15分ほどして、青年が手を止めた。
「完成だ」
そう言って絵をティアに手渡す。
「え? こ、これ私?」
そこに描かれていたのは、まぎれもなくティアだったが、ティアではなかった。
密かにコンプレックスを抱いていた鼻は、鏡で見るそれよりもほんの少しだけ高く、目線は柔らかく。
顔を構成する各パーツが微妙に美化されているのだ。
それでいて一個の絵として見た場合、違和感なくそれがティアだとわかる。
「わ、私こんなに美人じゃないわよ」
「そうだな」
むかっ!
例えそうだとしても、もう少し言いようがあるだろうに! 女心のわからないやつだ!
「で、どうだ? その絵を見てどう思った」
「うっ、そ、それは……」
「そう言うことだ」
どう言うことよ!
内心で罵倒する。
どうもこの青年は言葉が2言3言足りない。
ティアの視線を受けて、青年はため息をついて更に言葉を続けた。
「自分を美化して描かれて不快に思う人間はいない。いるかもしれないがごく小数だ。大多数は喜ぶだろうな」
ティアにも青年が何を言いたいかは分かる。
たかが似顔絵とはいえ、客商売なのだ、喜んでもらえればティアも嬉しいし、何よりチップの払いも良くなろうというものである。
だが単純には納得できない。
「お客に…… 絵を見る人間に媚びろと言うの?」
それは妥協ではないのか。
自分の絵を捨ててまで、それを見る人間に媚びるのはまっぴらだった。
「趣味で絵を描く分にはそれでもいいだろう、だがお前は金を取っているのだろう?」
「だからって!」
「何も媚びろと言っているのではない、だが絵を描き、それにより金銭を受け取っている以上、お前は客に対する責任があるのだ」
「責任?」
「お客を満足させるという責任がな」
「……」
青年は一旦言葉を切り、少し考えた後、続けた。
「この間の話ではないが、お前、金を出すから贋作を…… フェイクを描いて欲しいと言われたらどうする?」
「お断りよ!」
即答するティアに、青年は苦笑する。
この間の一件以来、フェイクに対する嫌悪はだいぶ薄まっていた。
自分が好んで描くオリジナルとは別に絵にはそう言う分野もあり、以前のようにその存在自体を否定する気にはなれないでいた。
だが認める事と自分でそれを手がける事は別だ。
ティアはフェイクなど描きたくなかった。
「ではお前はプロ失格だな」
「なんでよ!」
「よっぽどの巨匠ならばともかく、たかだか一絵師に仕事を選り好みできると思うか?」
「それはそうかもしれないけど……」
「金を取っている以上、趣味で仕事はしない。プロフェッショナルとはそういうものだ。何も絵に限った事ではない」
ティアは、何も言い返すことができなかった。
「お前が趣味で絵を描いているのならば、私は何も言わん。だがお前は絵で身を立てようと志しているのだろう?」
「……」
「客のニーズを考慮に入れるのは当然の事だ、だが客に媚びるのと客をもてなすのは違う」
「……わからないわ」
素直に認める。
ティアにはその違いが分からなかった。
いや、頭では分かる。分かる気がする。
だが……。
「自分の本当に描きたい事、描きたい物を曲げてまで客のニーズを優先させる。それは妥協ではないの?」
「妥協だろうな」
更に困惑する。
先ほど媚びるのともてなすのは違うと言ったのは、青年ではなかったか。
「そんな顔をするな、実際問題私にも分からんのだ。先ほどのは理想論さ」
先ほどまでの真剣な表情を崩し、やや苦笑気味に言い訳するようにそう言う青年。
その様子は年相応の若者らしく、ティアも知らず笑顔になった。
「なんだ、偉そうに言うから結論を出してくれると思ったのに」
「無茶を言うな、結論が出ているのならお前なんぞにちょっかいを出すものか」
「何よそれ!」
「まあ実際問題、時には妥協もしなければならないのは事実だ」
「そうよね、趣味ではないのだから」
ただ描きたいものを描き、それを見る者のことを一切考慮に入れていないのでは、いずれ見捨てられる。
かといって主体性もなく、ただ媚を売るような絵ばかり描いていても同じ。
結局は、程度の問題なのかもしれなかった。
「それにしても」
ティアは笑顔のまま、青年を見て言う。
「たかだか似顔絵一つで、大層な話になったものよね」
「ふむ、確かにな」
青年の口調に、呆れたような、それでいてそのことを楽しむような様子を感じ取り、ティアはなぜだか少し嬉しくなった。
「しかしさっきの似顔絵は頂けないな」
「む、どこがよ」
「私はあんなに気難しい顔はしていない」
ティアは青年をまじまじと見詰めた。
どうやら本気でそう思っているらしい、青年は大真面目だった。
「ぶっ…… くっくっく……」
「……何がおかしい」
「くっくっく、だって、だって」
「ええい、笑うな!」
「あははははっ!」
「笑うなと言うに!」
仏頂面をする青年を、ひとしきり笑い飛ばした後、ティアは未だ青年の名前すら聞いていない事に気付いた。
「そう言えばまだ名前も聞いていなかったわね。ああ、前に言ったけれど、私はティア。ティア・ランドルフよ」
「オルスタン・ワイマールだ」
「OK、オルスタン。まぁお互い第一印象は最悪だったけれど、これからはもう少し建設的な関係でありたいわね」
未だつむじを曲げている青年…… オルスタンに、ティアは右手を差し出す。
「ふん」
不満そうに鼻を鳴らしつつも、オルスタンは差し出されたその手を握る。
さしあたって少女の提案に異存はないようであった。
「絵について真剣に学びたいと思っているのなら、私の家に来い、少しは役に立てるだろう」
「そうさせてもらうわ」
ティアは知らなかったが、オルスタン・ワイマールは若さに似合わずこの界隈では知らぬものの無い画家であった。
この当時、その作品は贋作を主としていたが、後年における彼の評価はむしろオリジナルにこそ向けられることとなる。
ティア・ランドルフが後年にその名を残し得るかどうか。この時点ではまだ誰にも分からない。
確かな事は、これより10年ほど後、ティア・ランドルフは名をティア・ワイマールと改めることになるということであるが、それはまた別の話である。