フェイク

2000/08/30 久慈光樹


 

 

 転ぶ!

 そう思ったときには遅かった。

 何かにつまずき、バランスを崩した体はそのまま重力に引かれて石畳の上に叩きつけられる。

 

「うぐっ!」

 

 息が詰まる。

 走っていた勢いがそのまま衝撃に加算され、ティアの体は1メートルほど石畳を転がった。

 鋭い痛みが体中を走る。

 

「うっ、くっ」

 

 体を起こすと右膝と左肘に痛み。

 転んだ拍子に擦り剥いたのだろう、血が流れ出していた。石畳の為、泥が入るような心配はないがその分怪我は酷い。

 だが治療の為に立ち止まる贅沢は許されなかった。

 振り向けば幾つもの灯りと怒声。

 ティアは追われていた。

 怪我した足を庇うようにしてまた駆け出す。

 

 

 彼女には親が居ない。が、この街では珍しいことではない。

 彼女のように身寄りがいない子供がこの街で生きていくには道は2つ。犯罪に身を染めるか、それとも地道に細々と生きていくか。

 女性の場合には第3の選択肢があった、身を売るのだ。

 事実そうやって生きている者の方が大半であるのだし、ティアのように16にもなれば十分に客を取ることができる。早いものは12になる前からそういう行為に身をやつすのだから。

 更に言えば彼女は十分に美しいといえる容姿を持っていた。恐らく客を取るようになれば引く手あまたに違いない。

 だが、ティアはそうしなかった。店頭からパンを盗むことはしても、絶対に身は売らない。もっとも、窃盗は犯罪でありティアも自分が清く正しく生きているとは思わない。

 現に今も窃盗を見咎められ、追われているのだから。

 

 

 ティアは絵描きだった。

 いや、絵描きを志していたと言うほうがより正確かもしれない。

 その日の食べ物にすら不自由する身であったが、いつかは自分の描いた絵で暮らしていけるようになる。

 彼女はそう信じていた。

 いや、信じようとしていたのかもしれない。

 

「こんな街」

 

 走りながら、血を吐くように呟く。

 

「こんなごみ溜めのような街、いつか出ていってやる!」

 

 いつかは自分の描いた絵は認められる。

 そう考えるのは、少女ゆえの幻想だろうか。

 

「あっ!」

 

 考え事をしながら走っていた為だろう、行き止まりに入り込んでしまった。

 

「しまった……」

 

 このまま捕まれば、どんな酷いことをされるか。

 ティアに、選択肢は無かった。

 行き止まりの脇に建つ家の扉を力任せに押す。カギがかかっているであろうから、壊してでも入るつもりだった。

 だが、予想は外れ、あっけないほどあっさりと扉は開いた。

 これ幸いと入り込み、内からカギをかける。室内に人影は無かった。灯りも無く、暗い。

 そっと外の様子を伺う。

 入り乱れる足音と、怒声。

 やがて荒々しく叩かれる扉。

 

 ドンドンドン!

 ドンドンドン!

 

 背を冷たい汗が一筋伝う。

 この家の人間が気付いて起き出してきたら? 恐らく不法侵入の自分は引き渡されてしまうだろう。

 どうか留守でありますように。

 だがティアの祈りも空しく、奥の部屋から灯りを携えた男が姿を現した。

 薄暗い灯りの為か、年の頃ははっきりしない。意外なほど若くも見えるし、中年のようにも見える。

 男は身を竦ませるティアに一瞥をくれると、自分の出てきた部屋を指差した。

 

「かくまって、くれるの?」

 

 相変わらず荒々しく扉を叩く音に遮られ、その呟きが男に届いたかどうかは分からなかったが、男は奥を指差したまま微動だにしない。

 またしてもティアに選択肢は無かった。

 

 

 

「ここに女が逃げ込まなかったか?」

 

 扉を開けた男を迎えたのは、興奮した中年の男だった。近くの雑貨屋の店主だ。

 

「隠すとためにならんぞ!?」

 

 扉を開けた男の、氷のような視線にやや怯みつつも店主はそう凄んだ。

 

「……知らんな」

「本当だろうな?」

「しかもここにはカギがかかっていた」

「ちっ」

「用はそれだけか? ならばお引取り願おう。俺は今忙しい、頼まれた絵を明日までに上げなくてはならないからな」

「ふんっ! 贋作描きが何を偉そうに……」

 

 店主の目にはあからさまな嘲りが見て取れる。

 だが男はそのまま何事もなかったかのように店主の鼻先で扉を閉める。

 閉めた扉の向こうから舌打ちと罵声が響いたが、そのまま人気は遠のいていった。

 

 

「あなたも物好きね」

 

 かくまってもらったティアの、それが第一声であった。

 男は非礼に対し怒るでもなくじっと彼女を見やる。

 心の底までも見透かされるようなその視線にやや怯みながらも、じっと睨み返す。

 

 弱みを見せないこと。

 

 それがこの16年間一人で生きてきて学んだ、生きる術であった。

 弱みを見せればつけ込まれる。

 少女がこの街で一人きりで生きていくには、自分以外の人間を信じないことが第一であった。

 彼女が絵を描くと知り、パトロンになってやるという申し出もあった。だが実際には身体が目当てであり、彼女の描く絵になどこれっぽっちも興味を引かれたわけではない。

 ティアはそんな思いを幾度となくしてきたのだ。

 他人は信じられなかった。

 

「まあな」

 

 やがて男が口を開く。

 改めて見ると、意外と若い。二十代後半くらいだろうか、青年と言える年齢だった。

 

「聞かないの、私が何をしたのか」

「それを聞いて何か私に得があるのか?」

「それはないでしょうけど……」

「ならば聞いてもしかたあるまい?」

 

 ここまでのやりとりで、ティアはこの青年を嫌いになることに決めた。

 あまりにもひねくれている。しかも先ほど自分を追ってきた店主の言葉……。

 

「あなたは贋作を描くのね?」

 

 ティアは贋作を描く人間が嫌いだった。憎んでいると言っても過言ではない。

 贋作、それは世に名の売れている“巨匠”の絵を真似て、それと知らない者に法外な値段で売りつける偽物の事だ。

 中には贋作と知りつつ収集する好事家も居るらしいが。

 ティアのように認められなくとも自分だけの独自の世界を築き上げようとする者には、巨匠の世界を模倣してそれを恥じるどころか誇りさえする贋作絵描きは憎しみさえ覚える。

 大概においてそうして模倣に徹している輩のほうが、よい生活をしているとあれば余計に。

 

「贋作、物真似なんかして、それで金を稼いで、あなたは絵描きとして恥ずかしくないの?」

 

 内心の嫌悪感がそのまま言葉の厳しさに直結した。

 それを聞いた青年の表情に、初めて興味の色が浮かぶ。今まではただ気だるそうに言葉を返していたに過ぎないのだ。

 だが、彼女のその痛烈な批判にも動じた様子は無かった。それがティアにはいまいましい。

 

「お前も、絵を描くのか?」

「私にはティアって名前があるの、お前なんて呼ばれる筋合いはないわ」

「ティアは絵を描くのか?」

 

 嫌みったらしく名を呼びなおす青年に憤慨しながらも、胸を張って答える。

 

「そうよ。だけどあなたみたいな贋作なんて描かない。れっきとした自分だけのオリジナル、本物の絵を描いているわ」

「本物、か。では私の描いているのは偽物、フェイクというわけだな」

「その通りでしょう?」

 

 あえて挑発するように問い返す。

 

「ふむ。ならばフェイクはオリジナルには及ばないと、ティアは言うわけだ」

「その通りよ」

「……ふふ」

 

 青年のその笑いは果たして何に対してであったのか。

 少女の無知をあざけるようであり、その慧眼を称えるようであり、苛烈な断罪に苦笑するようでもあり。

 ティアには判断がつかなかったが、その笑みを見たとき、彼女は不意にカッとした。

 

「なにが可笑しいの!!」

 

 ダンッ!

 

 近くあったテーブルを右手で叩く。

 先ほど傷ついた肘がズキンと痛んだ。

 

「なんだ、怪我をしているのか」

「お、大きなお世話よ!」

 

 青年はティアの剣幕にも動ずることなく、そのまま奥に引っ込んだ。

 やがて手に木の箱を持って現れる。

 

「薬や包帯が入っている。勝手に使うといい」

「だ、だれが……!」

「蔑むべき贋作絵描きとは言っても、治療の道具は偽物じゃないさ」

「ふ、ふん!」

 

 最初は突っぱねようとしたが、現実問題として傷は先ほどからズキズキと鈍い痛みを発していた。思ったよりも怪我が酷いのかもしれない。

 素直に治療道具を借りることにした。

 

「礼は、一応言っておくわ」

「ふん」

 

 青年は鼻を鳴らすと、そのまま奥へ引っ込んだ。

 

 

 

 怪我の治療を終え、少し待ってみたが男は戻ってこない。

 そのまま出て行こうかという思いも浮かんだが、流石にそれも薄情すぎるような気がした。

 

「ねぇ! 終わったんだけど!」

 

 奥に声をかけてみたが、答えは返ってこなかった。

 

「何よ、まったく……」

 

 仕方なく、治療道具の入った木箱を抱えて奥の部屋に進んだ。

 だが奥の部屋かと思われたそこには、下へ続く階段があった。

 

「地下室? だから呼んでも応えがないのね」

 

 若干警戒しながらも、ゆっくりとその石造りの階段を下る。

 

「まったく、何で私がこんなことまでしなきゃならないのよ……」

 

 先ほどから少し饒舌になっている。不安だからかもしれない。

 聞こえるのは自分の足音のみ。

 所々に灯りがあるとはいえ、薄暗いその階段はまるで地獄の底に通じているような錯覚を覚える。

 やがて、扉が見えてきた。

 ゆっくりと扉を開き、そして、ティアは固まった。

 

 そこには、100年以上前に世を去った高名な巨匠の“新作”があった。

 もしそれが本物であれば、巨匠のまだ世に出ていない新作であったのなら、この絵にはいったいどのくらいの値がつくのか想像もつかない。

 だが、それがこの場にあるということは……。

 

「何をしている」

 

 顔料を調合していたのであろう、部屋の奥からあの青年が姿を現した。

 ティアはその声で我に返る、自分でも気付かぬ内にこの絵に引き込まれてしまっていた。

 

「これは、あなたが描いたの」

「そうだ」

 

 やはり贋作であったのだ。

 だが、ティアも言われなければそれが贋作であるとは気がつかなかっただろう。

 それほどまでにこの絵はよくできていた。

 タッチや色使いという表面的なものではなく、巨匠の世界観のようなものが絵に表れている。

 それでいて、どこか青年の持つ個性のようなものが見て取れ、それが巨匠の世界観を壊すことなく共存している。贋作としてみた場合、稀有の作品だろう。

 

「でも、所詮はフェイクだわ……」

 

 絵に引き込まれてしまったことへの言い訳。

 ほかならぬティアが一番そう思った。

 

「そう、これはフェイクだ」

 

 だが、青年はそれを認める。

 その声に自嘲や開き直りの響きはない。まるで当然のことを当然に話しているような口調。だからこそティアの勘に触った。

 

「これを何も知らない人に法外な値段で売りつけるつもりなのね」

「いつもならな、だがこの絵は違う。フェイクだということを承知の上で買い取ってくれる人もいるのでね」

「はっ! 物好きなことね!」

 

 ティアの物言いに、初めて青年に苦笑が浮かんだ。

 

「私の絵をそれと知りつつも買ってくれる人は多い。自分で言うのもなんだが、この業界ではそれなりに評価されているのだがな」

「しょせんはフェイク、贋作絵描きとしての評価でしょう?」

「では聞こう、ティア。この絵はどうだ?」

 

 回答に窮す。

 単純に技量的な面から見ても、自分などは到底及びもつかないレベルだ。それに何より巨匠の持っていたであろう世界観を完全に把握し、自分なりに消化している。

 自分はこの作品を、フェイク、贋作としての色眼鏡でみているのだろうか?

 

 だが……。

 

「これだけの技量を持っているのに、どうしてフェイクを描くの? どうして自分だけの世界を創造しようとしないの?」

「それは私の勝手だろう。私はフェイクを描くのが好きなのさ。巨匠の世界観に浸り、その世界観の中で自分の個性を表現する。お前はフェイクだと蔑むが、フェイクにはフェイクなりの長所もあれば短所もある」

 

 青年はそこで一旦言葉を切り、更に続ける。

 

「オリジナルにはオリジナルなりの、フェイクにはフェイクなりの、長所もあれば短所もある。オリジナルはフェイクより優れているのか? フェイクはオリジナルよりも劣っているのか? お前のその考えは、自分と価値観の違う者は認めようとしない、酷く視野の狭い考えではないのか?」

「……! 違う!」

「なにもオリジナルを、お前が今まで描いてきた作品を否定するつもりはない。ようは人それぞれなのさ。お前のようにオリジナルに賭ける者もいれば、私のようにフェイクを好む者もいる、それでいいのではないか?」

 

 だがティアは納得できない。

 所詮、フェイクはフェイクなのだ。自ら独自の世界観を創造することを放棄し、他人の作り出した虚構に浸ってそれを誇りさえする。そんな贋作絵描きたちを許容することはできなかった。

 恐らく青年にも思うところがあったのだろう、先ほどまでの無愛想さとはうってかわって今の彼は饒舌だった。

 

「オリジナルが巧く描けるからといって、フェイクを巧く描けると考えているのなら、それは間違いだ」

「所詮は人真似じゃないの!」

 

 青年の目に蔑みの色が混じる。

 

「長所もあれば短所もあると言っただろう。確かにフェイクなら自らの世界を創造する必要は無い、だがその代わり既にある世界観を自分なりに消化し、その世界の中で逸脱しないように自分を表現しなくてはならない」

 

 確かに青年の描いたフェイクは、そのことが見て取れた。

 世界観に浸っているだけであれば、それは単なる物真似に過ぎないし、あまりに我を主張してしまうと既存の世界観にそぐわなくなる。ティアもそれは理解できた。

 

「一長一短、いや、自らを表現しようとした場合、フェイクの方がオリジナルよりも高い技量を要求する」

 

 でも。

 ティアは思うのだ、青年の言うことは正しい。まったくの正論である。悔しいが、ティアは反論する術を持たなかった。

 でも、絵を描いている以上、いつかは自分の世界を創造したい、オリジナルを描いてみたいと思うだろう。それとも青年はオリジナルを描こうなどとは、少しも思わないのだろうか。

 

「違う、わね」

「何?」

 

 唐突に、ティアは答えを悟った。

 

「あなたがオリジナルを描かないのは、確かにフェイクが好きだからということもあるでしょう。でも、それだけじゃない」

「……では、どういう理由があると思うのだ?」

「あなたは、怖いのよ」

「怖い?」

「さっき、それなりの評価を受けていると言っていたわね。でもそれはあくまでフェイクの、贋作絵描きとしてのあなたの評価なのよ」

 

 そこで言葉を切り、青年の反応をうかがう。

 

「……続けろ」

 

 そう言う青年の顔色が悪いように見えるのは、薄暗い灯りのせいだろうか。

 

「あなたはこう言われるのが怖いの、『あいつはフェイクは見事だったが、オリジナルはさほどでもない』と『所詮は贋作絵描きなのだな』と」

「……」

「フェイクが評価されればされただけ、あなたはオリジナルを描くことを、いいえ、オリジナルを描いてその評価を聞くことを恐れたのよ」

 

 結局、彼も自分と同じなのだ。

 頭ではフェイクはオリジナルに劣るという考えを否定し蔑みながら、心の底ではそのことに怯えている。フェイクはオリジナルに劣っていると、心のどこかで思っている。

 

「『自分と価値観の違う者は認めようとしない、酷く視野の狭い考え』それはあなたも同じよ」

 

 青年は、今は傍から見てはっきりと分かるほど蒼白になっていた。

 先ほどまで何とか言い負かしてやろうと躍起になっていたにも関わらず、ティアは後味の悪さに顔を顰めた。

 「あなたも同じ」とティアは青年に言った。

 ティアも気付いていたのだ。いや、青年に気付かされたのだ。

 自分の考えが、他人を許容しない視野の狭い考えだと言うことに。

 そして、青年自身もそうだったのだ。

 

 オリジナルを信奉し、フェイクを蔑んでいたティア。

 フェイクを愛し、全てを捧げながらもオリジナルに惹かれる青年。

 

 果たして、どちらがより哀れなのか。

 

 ティアには、その答えを見つけることはできなかった。

 

 

 

<END>