えっせい

「身体に障害を持つ」ということ


 

 

 「障害者」というのは非常にイヤな言葉だ。

 身体に障害を持つ者、言葉通りにも関わらず、私はこの言葉を聞くと非常にイヤな気分になる。

 私が健康で五体満足である事が、この場合は引け目になっているのかもしれない。

 

 私の通っていた小学校の隣には、ろう学校があった。

 ろう学校というのは、聴力に障害のある子供が通う学校の事だ。

 子供の頃であるから、それがあたりまえであって耳の聞こえない子に対し別段偏見は持たなかった…… と書けば美談なのだろうけれど、実際には全然そんなことは無かった。

 本当の事を言うと、子供心に「あいつら気持ち悪い」とまで思っていた。

 子供は純粋で、それがゆえに残酷である。

 いつの世も、「王様は裸だ!」と叫ぶのは子供たちなのだ。

 大人が世間体を気にして口に出せないことを、子供たちは平気で口にする。それが例えタブーであってもだ。

 当然の事ながら、そのようなことを口にしようものなら教師にこっぴどく叱られた。

 

 なぜ叱られなくてはいけないのだろうか?

 

 そんなことは当たり前である。それが「いけない事」だからだ。「悪い事」だからだ。

 そう、障害を持つ方に、障害を持っている事を指摘するのは「悪い事」なのだ。

 

 そうだろうか?

 本当にそうだろうか?

 

 障害を持つ方にとって、障害を持つという事実は既に「当たり前の事」なのではないだろうか。

 

 こんな小話がある。

 一つ目の人間が住む街を見つけた男がいた。

 男はこの世にも珍しい一つ目の人間を捕まえて、見世物にしようとした。

 だが逆に捕まってしまい、一つ目の人間しかいない国に連れていかれた。

 その国で男は、逆に見世物にされてしまうのだ、“世にも珍しい二つ目の人間”として。

 うわー、二つ目の人間だ。

 げっ、気持ち悪い。

 二つも目があるなんてかわいそうに。

 その国で見世物にされて過ごすうち、男は二つも目がある自分こそが異常なのではないかと思い始めた。

 そして男はついに自分の目を一つ潰して一つ目になってしまいましたとさ。

 

 まぁなんとも笑うに笑えない話である。価値観の違いと言ってしまえばそれまでであるが。

 

 私たちの住む日常は、身体に障害を持たない人間が大多数である。

 だからこそ健康体である私たちは、障害を持つ方を「かわいそう」だと思う。

 だがそれこそ障害を持つ方にとっては「大きなお世話」なのではないだろうか。

 

 

 

 

 先日、いつものようにNETを徘徊していると障害を持つ方のことを話題にしている掲示板があった。

 いつも私が行くような掲示板ではなく、「一般の人たち」が利用するような掲示板である。

 そこでは障害を持つ方も含め、様々な人により会話が為されていて、興味深く拝見した。

 そこに、次のような書き込みがある。

 

 

今日 熊本の「身体障害者ソフトウェア開発訓練センター」へ
行く予定...

(中略)

いつも思う こういった人達はスゴイ精神力!
健常者にはない力を持っているのです。

だから生きることへの健全な精神力・考え方を
持ってるこのような人達が 小生は 好き!。

 

 

 この書き込みは、言葉を借りるなら「健常者」の方の意見である。

 これを見て、あなたはどう思うだろうか?

 

 私は、ひどく傲慢な意見だと思った。

 あげ足をとるようだが、「健常者」と「こういった人達」を明確に差別しているのではないか。無意識のうちに。

 少なくとも先天的に障害を持つ方にとっては、生まれたときからそうであるわけで、哀れみなど彼らの尊厳を貶す事にしかならないだろう。

 

 と、ここまで話を展開して、ちょっと待て、と思った。

 確かに、哀れみや同情は時として侮辱と同じである。

 ではこうした障害を持つ方を完全に健康な人間と同じと見なせるのか。

 もしそうであるのなら、極論すれば社会福祉など必要無いし、障害を持つ方への配慮などする必要がないという事になる。

 電車のシルバーシートに優先的に障害を持つ方が座るのは、特別視しているとして侮辱に繋がるのだろうか?

 白い杖を持つ方の手を引いて横断歩道を一緒に渡る女性を見て、あなたは障害を持つ方を差別している! とでも言えばいいのだろうか?

 それも違うだろう、と思った。

 まぁどれもこれも極論だが。

 

 

 

 

 さて、ここで話の質はぐっと落ちる。

 ゲームの話だ。

 「ONE」というゲーム…… と言えば、このサイトを訪れこのエッセイを見てくださっている方には、私がこれから何を話題にするのか分かってくださると思う。

 このゲームには目の見えない少女と、口のきけない少女が登場する。

 両者はそれぞれ障害の差こそあれ、我々健康体から見れば「障害者」である。

 だがこの両者では決定的に違う点がある。

 口のきけない少女は恐らく先天性の障害であり、目の見えない少女は幼少時の事故により光を失ったのである、つまりは後天性だ。

 ゲーム中の描写で、主人公が目の見えない少女と初めて会ったときの会話。

 

「俺、そういう人とどう接していいかわからなくて……」

「……普通でいいと思うよ」

 

 細部違う可能性大だがおおまかにこんな感じ。

 少女は悲しげに、普通に接して欲しいと主人公に告げるのだ。

 口のきけない少女の場合には、このような描写はない。

 私がこのONEというゲームを凄いなあと思うのは、こういう細部でいくらでも深読みできるだけの要素があるということなのだが、それはまあ別の話。

 目の見えない少女は、特別視される事を嫌っている。よく見れば、ゲーム中で彼女が白い杖を所持している様子もない。

 恐らくそれは少女が盲目であると言う事が、後天性であることに起因しているのだろう。

 幼い頃事故で光を失った彼女には、目の見えていた頃の記憶があるのだ。これが生まれつき目が見えなかったというのなら、また違っていただろう。

 もし私が明日から目が見えなくなったらどうだろう。

 昨日までは見えていたのに、もう今日からは何も見えない。

 つらく惨めな思いに囚われるに違いない。

 そこにきて、他者から「久慈さんは目が見えなくてかわいそうですね」などと言われようものなら、自分でもそう思っているだけに、余計に惨めな思いをするだろう。

 これが「久慈さんは耳がでかいですね」とか言われても、頭にくるだろうが惨めな思いはさほどしないに違いない。

 耳がでかいのは生まれつきであって、ある日突然耳がでかくなったわけではないからだ。

 ……なんてヒドイ例えか……

 

 

 家の祖父は、6年ほど前に脳溢血で倒れ、左半身不随の障害を負った。

 祖父も特別視される事を酷く嫌うのだが、実際に世話をしている祖母や母を見るかぎり、それは虫のいい話のようにも思えるのだ。

 

 健康体である私たち、そして障害をもつ方々。

 片方だけの意識が変わっても、恐らく問題は解決しないのだろう。

 双方がお互いに意識を変えていかなかれば、両者の関係は良好たり得ない。

 そういうことなのかもしれないな、と最近になって思い始めた。

 

 

 

 

 なんか小学校の道徳のようなオチだ……。

 

 

<おしまい>