えっせい

「自分を好きになる」ということ


 

 

 

 嫌いなヤツがいる。

 変に大人ぶるのに長けていて、偉そうで、そのくせ他人の目ばかり気にしている。

 見ているだけで、気分が悪くなる。

 そんなヤツを表すのに、最適な言葉がある。

 偽善者。

 そう、ヤツは偽善者だ。

 

 最近、鏡の向こうにいる人が、そう言っているのが聞こえる。

 私もそう思っているのだから、お互い様だ。

 

 

 そう

 私は自分のことが嫌いだ。

 

 自分のことを好きだと言える人は幸せだと思う。

 皮肉ではなくそう思う。

 

 決して自虐している訳じゃないが。

 

 

 拙作である『家族』というシリーズがある。

 シリーズ3作目であり、AnotherStoryとしては2作目の『偽り』という話を読んで頂けただろうか?

 あの話、書いている間は意識していなかったけれど、今読み返してみると思うところがある。

 作中の主人公である祐一。彼の思考は笑ってしまうくらい作者である私の思考そのままだ。

 

 自分が嫌い。

 他人を、自分自身を偽っている自分が嫌い。

 そして他人が自分のことをどう思っているのかを異常なまでに気にする。

 

 作中の祐一はそんな感じだ。

 

 投稿させて頂いたにわか書店さんのあとがきにも書いたのだけれど、「他人の目を気にする」ってのは程度の差こそあれ、誰もが持っている感情だと思う。

 他人からどう思われても物事をやり通すってのは酷く難しい事だ。

 誰だって嫌われたくは無いし、できれば好いて欲しいと思う。

 言い訳をするようで嫌なのだけれども。

 

 だけど、そうやって言い訳しても、そんな自分を好きにはなれない。

 

 

 以前、エッセイで「好きになる」ということを書いた。

 「自分は今まで異性を好きになったことが無いのではないか?」

 当然だろう。

 自分を好きになれない人間が、誰か他の人を好きになろうだなんて甘いに違いない。

 きっと私は誰かを好きになるよりも、誰かに好きになって欲しいのだ。

 だけどいざ好きと言われても、自分で自分が嫌いなものだから、その言葉を素直に信じる事ができない。

 そして結局うまくいかず、そんな自分がもっと嫌いになる。

 だけど、付き合っていた娘と別れることになってもそんなにショックだと感じないのだ。

 私はどこかおかしい、絶対におかしい。

 

 それすらも、ショックを受けていない自分を演じているのかもしれないが。

 

 

 なんかポンポンと話が飛んで申し訳ない。

 

 

 また話が飛ぶが、私には弟が一人いる。

 7歳離れた弟が。

 これだけ歳が離れていると、弟という感覚はあまりない。

 最近はそうでもなくなってきたけれども、昔は弟というより被保護者という感覚だった。今から考えると笑止だけれども。

 なにせ、私が中学に上がるとき、彼はまだ小学1年生か2年生。赤ちゃんの頃はオシメを変えてあげたことすらある。彼の名付け親になったのも私だ。

 

 某ゲームではないが、彼には兄としての愛情を注いであげたかった。生まれてくる事のできなかった上の弟の分まで。

 彼の前では“いい兄”でありたかったし、“いい保護者”であろうと思っていた。

 私が自分を偽り始めたのはその頃からだったかもしれない。

 

 尊敬される兄であろう。

 頼りにされる兄であろう。

 そんなことを子供ながら思っていた。

 

 私たちは兄弟喧嘩をしたことがない。

 大抵はケンカに発展する以前に弟が泣いて私が親に怒られるという構図だったから。

 子供心に不服に思ったこともあったけれど、基本的には気にならなかった。だって私は“いい兄”だったから。

 

 

 アトランタ五輪の有森裕子が、見事銅メダルを獲得した後に言った一言を覚えているだろうか。

 

「自分で自分を褒めてあげたい」

 

 初めて聞いたときには、なんて陳腐な言い草なのだろうと思った。

 だけど今、この言葉が私には重い。

 私は自分で自分を褒めてあげられるほど、物事に真剣に取り組んでいるだろうか? 精一杯努力しているだろうか?

 自分を褒めてあげられるほど真剣になれば、自分のことを少しは好きになれるだろうか?

 

 自分のことを好きになるってことは、並大抵じゃできない。

 だけど、努力はしてみよう。

 いつの日か、自分を褒めてあげられる日が来る。

 そんな事を信じて。

 

 

 

<おしまい>