異能者
三次創作
『戒める鎖』
これは『ONE』でも『Kanon』でもない、どこの組織にも属さなかった少年達の物語。
異能者のもう一つのお話。
力無き者は力を求め
力有る者はその力に戸惑いながらも それを行使する
法は無く 力が全ての世界
彼らは何を思い 何を求めたのか
血を血で洗い
夢など語るものなどいなくなり
今日は生きることが 精一杯の時代
強きは弱きを挫く
それは 今日を生きるため
弱きは苦痛に倒れ 明日を夢見る事はないだろう
弱きを倒す強き者
明日の為 手を血に濡らすだろう
雨は降り注ぐ
全てに平等に
しかし 例えその雨は 血に濡れた手を洗い流しても
罪まで洗い流す事は無い
罪に縛られ生きる者
彼らが夢見たものは何だったのだろうか
第一章
「我を縛るは罪」
暗い部屋。
部屋に明かりらしいものは無く、部屋に唯一ついている窓も必要最低限の光しか通さない。
「それで、こいつがターゲットか?」
俺は、渡された写真を見て言う。
「ええ、お願いできますか?」
下卑た笑いを浮かべる男。
俺が一番嫌いなタイプだ。
「金次第だ」
俺は冷たく言い放つ。
「これだけ出しましょう」
言って、指を一本折る男。
「百万か?」
人一人に百万、相場と言えば相場とも言えなくも無い。
「いえ、一千万です」
男は顔色変えずに言う。
人一人に一千万?
「一千万だと…」
訝しげに男を見る俺。
「この人物にはそれだけの価値があると言う事ですよ」
「それだけの金がお前らに―」
俺が言い終わらぬうちに、男が口を挟む。
「それだったら、ご心配なく」
言いながら、テーブルにトランクを載せ、開けてみせる。
中にはぎっしりと詰まった札束が見えた。
「どうです? 偽物かどうか調べても結構ですよ?」
「いいのか? 俺がお前を殺してこの金を持ち逃げするかもしれないぜ?」
「あなたは、そういったことがお嫌いでしょう。それに、一度そういった事をなされると、後々仕事がしづらくなる。それに、追われる身にはあなただってなりたくないでしょう?」
「ふん、まぁいい。ターゲットはこの女一人だな?」
得意気に語る男に、俺はもう一度確認する。
「その女に側近の異能者が三人います。といっても、年端もいかないような少年少女ですがね。そいつらを殺してくれた場合は、別金を用意しますよ」
(俺も似たようなもんだけどな、年端もいかないって意味じゃ)
殺すという単語を、いとも簡単に口から吐き出す男。
殺しのもつ、意味も分からずに。
全身に虫唾が走る。
俺は黙って立ち上がる。
小さく言葉を吐く。できるだけ低い声で。
「依頼は引き受けた」
「そうですか、ありがとうございます。よいご報告を待っていますよ、『縛られぬ者』の―」
言って、頭を垂れる男。その仕草もどこか芝居くさくて気に入らない。俺は男が言葉を言い終わらぬうちに口を出す。
「ああ。だが、殺すのはこの女一人だ。無駄な殺しはしない」
言い捨て、俺はその部屋を後にする。
この男と一分、一秒でも同じ空気を吸うのが嫌だった。
「フン、相変わらずの偽善者ぶりか。人を一人殺せば、二人も三人も変わるまいに!」
男が出て行った部屋で、一人激昂する依頼人。
「『縛られぬ者』とはよくも言ったものだ。これで失敗でもしてみろあの若造、こっちの世界にいられなくしてやる」
依頼人は、苦々しく呟いた。男の態度が、いたく気に入らなかったようだ。
「雪か…」
部屋から外に出て、肌寒い風を身に一身に受けながら呟く。
「寒いな。昔は綺麗だと思った雪も、今じゃ凍死を誘う死の妖精だな」
何人もの人間が、帰る家を無くし凍死していった。
寒い北の大地では、作物も決して多くは取れない。餓死したものも少なくは無い。
寒さをしのぐ為に、マンホールの中で暮らしている人達も多い。
「昔は、ロシアの方でストリートチルドレンがマンホールで暮らしてったって言うけど、今じゃこの北国じゃ珍しくないな…」
空を見上げながら、俺は呟く。
小さく呟いた言葉は、冬の荒々しい風にすぐにかき消される。
「『縛られぬ者』か…。誰が言い始めたのやら」
俺は小さく笑う。
「縛れているさ。大地という大きな鎖と、罪悪感とやらにな」
俺は呟き、吹き荒れる吹雪の中に姿を消した。
『おかえりー』
何人もの子供達の声が出迎える。子供達は輪になって、なにやら遊んでいるようだった。
「おみやげはー?」
輪から抜け出して、子供の一人が聞いてくる。
「ごめんな、今日はないんだ」
俺は、その子の頭を撫でながら言う。
「こら、直人お兄ちゃんに失礼でしょ。いきなり、そんなこと聞いて」
年の頃、18〜20くらいの女性が子供を叱る。髪は黒く、腰までも伸びており、それを後ろで一つに結わえている。身長は聞いたことはないが、160の前半だろうか。彼女の名前は、高槻 涼子。
「はーい、ごめんなさい」
子供は、素直に頭を下げる。
「はは、構わないよ。俺こそごめんな、何にも無くて」
「ううん、僕達はお兄ちゃんやお姉ちゃんがいるだけで嬉しいから」
「こいつ、このこの」
恥ずかしいことを言う奴だ。
俺は照れ隠しに、子供を抱き上げて乱暴に頭を撫でる。
「うわっ、やめてよ。直人お兄ちゃん」
子供も、少し恥ずかしそうに俯く。
俺は、子供を下ろしてやる。
「それじゃ僕、みんなと遊んでくるね」
そう言って、輪に戻っていった。
俺は、周りを見渡す。
ボロボロで、いつ壊れてもおかしくないような壁面。高い天井。割れたステンドグラスに、ごちゃごちゃの机たち。
ここはもと教会だ。今でも教会と言えば教会だが、教会として使われていない以上その呼び方は正しくないだろう。
今は、俺が何人かの仲間と子供達を集めて孤児院のようなものをしている。
「いつも悪いな涼子。子供達の面倒をまかせっぱなしで」
俺は、涼子にそう話し掛ける。
「ううん、そんなことないよ」
涼子は笑いながら、俺に話す。
「直人や、皆がいない時は少し寂しいけど、子供達は好きだしね」
それに皆、少しづつだけど笑うようになったの。
涼子は言った。
さっきの子供は元気に笑っていたが、皆がそうというわけではない。
言葉を紡げなくなった者、虚ろな瞳をして笑わなくなった者、一人では歩く事も出来ない者。
いろんな子供達がいる。
「そういや、皆って、翔二の奴は?」
いつもは、ここにいるはずの男の姿が見えず俺は涼子に尋ねる。
「食料の買出しにいったまま、帰ってこないのよね。何かあったのかしら?」
遅すぎるよね?
不安気な表情を見せる、涼子。
「あいつに限って、そんな事はないと思うけど。確かに心配だな。少し見てくるよ」
そう言って、扉に向かった時だった。
バン。
と音を立てて、景気よくドアが開かれた。
入ってきたのは、長身のノリのよさそうな男だ。手には大きな袋を抱えている。
「おっ、直やん、帰ってきてたんかいな」
気さくに、こちらに声をかけてくる。
「帰ってきてたのか、じゃねーよ。お前が遅いんだよ翔二、今もお前を探しに行こうかと…」
俺はそう、長身の男、翔二に話し掛けた。
「いやいや、心配かけたみたいやな。ちーっとばかし値切りっておったんや。これがまた、なかなか強情なオヤジでなぁ―」
「んなことより、ちゃんと買ってきたんだろうな?」
何だか熱弁を振るい始めた、翔二を半ば無視するように口を挟む。
「あぁ〜、ひどいなぁ直やん。俺の武勇伝が…。まぁええ、買ってきたでほら」
そう言って、上手く巻かれた釣り糸を渡す。長さは20mはありそうである。
「うん、まぁいいだろ。これだけあれば十分だろ」
「しっかし、不便な力やなぁ。一回力を吹き込むと、その後脆くなっちまうんやから」
「万能なものなんて、世の中にはないってことだろ」
俺は苦笑混じりに話す。本当の意味での、万能なものなど世の中にはありはしない。そんなのものがあれば、見てみたい。そうすれば『異能力』など必要無いのだから。
「ほら、涼子ちゃんにはこっちや」
抱えていた袋を翔二は、涼子に渡す。
「わ、随分と買ってきたね。あれでお金足りたんだ」
涼子は驚いた声をあげる。
「そやろ? そやから、俺の値切りの武勇伝を聞いてぇーな。…そうあれは、数十分にも渡るオヤジとの戦いやった。あれはきっと、ワイの人生の中でも、1、2を争う勝負やったなぁ―」
熱く語り始める翔二と、それを薄く笑いながら聞く涼子を尻目に、俺は子供達に近づく。
ちなみに翔二はいつもこんな感じだ。付き合い始めて、そんなに長いわけではないがおおよその翔二のキャラクターみたいなものは掴めるようになった。なんでも、商人魂に火がつくだとかで、なんでもかんでも値切ってしまうらしい。よく分からない奴ではある。
「何をしてるんだい?」
俺は笑顔で子供に話し掛ける。各人が、おのおのに遊んでいるらしかった。
「うんとね、お絵かき!」
元気よく、一人の少女が返事をする。
振り向いた勢いで、ふわりと髪が少し揺れる。その仕草がなんとも可愛らしい。
「お絵かきか」
「うん、なおとお兄ちゃんがくれたクレヨンでね、このスケッチブックに、にがおえをかいてたの」
そう言って、その絵を見せてくれる。
少女は、満面の笑みを浮かべている。
こっちまでも、つい嬉しくなる。
「じょうずでしょ?」
上目遣いで、少し不安気な声で聞いてくる。
「ああ、とっても上手だね」
笑顔で返事をしてあげる。
子供にしては、なかなか上手に描けている。人物の特徴を上手く捉えているというのだろうか、下手をすると絵心がない俺よりも上手いかもしれなかった。もしかすると、絵に才能があるのかもしれない。
(それは、言いすぎかな)
胸中で呟く。確かにそれは、誉めすぎかもしれない。
「えっとね、これがゆきで、これがあかねでしょ。そうだ、なおとお兄ちゃんもいるんだよ」
スケッチブックをめくり、前のページを見せてくれる。
「りょうこお姉ちゃんや、しょうじお兄ちゃん、みんないっしょだよ」
笑顔でそこまで説明してくれたが、急に少女の表情が暗くなる。
「みんないっしょだよね…? どこにもいかないよね、ずっといっしょだよね…?」
今にも泣きそうな顔で、尋ねてくる。
少女は、大破壊の紛争で家族を失ったのだ。
「おとうさんも、おかあさんもどこかにいっちゃった。なおとお兄ちゃんたちはどこにもいかないよね?」
幼い少女の心は、両親の死というのを受け入れられなかった。少女は今も、いつか両親が帰ってくるかもしれないと心の何処かで思っているのだ。そう思うと、胸の奥が痛む。
紛争では多くの人が死んだ。人々が原因も分からぬまま、文字通り「消滅」。それは、全世界、日本とてもちろん例外ではなく、大きな混乱をもたらした。
混乱という熱病は、『異能者』を危険分子と見なさせ、理由らしい理由もないまま、人間同士の大量虐殺という結果を生んだ。
多くの家庭は瓦解した。父は戦いに出向き、母は子を護るために倒れた。
混乱を収める為に、レジスタンスという形で蜂起した組織はいくつもあったが、それは更に多くの家庭を瓦解させる結果に至った。そして、多くの組織はその事実におそらく気付いてはいない。それか、その事に気付かないようにしている。
混乱を収めるため、もしくは自らの理想を叶えるために、多くの人間は家庭を捨てた。捨てざるを得なかった。
戦わねば殺される、そんな時代だった。混乱極まり、経済も法もないような時代には逃げるような場所は無く、生きていく場所は自らの手で勝ち取らねばならかったのだ。
一つの組織が蜂起すると、それに対抗するようにいくつもの組織が、我も我もと産声を上げた。、それは紛争時代よりはよくなったとはいえ、理想を追い求め、家族を、子供を捨てる親が現われ始めた分だけ、タチが悪いと言えた。中には、生きるために自分の子供を殺す親までいたのだ。しかしだからといって、今の時代誰がその親を責められるだろう。誰もが生きることに精一杯なのだ。
明日のパンにも困るような時代、食扶持を減らすのは珍しい事ではなかった。
少女の両親は、子供を捨て組織へと身を委ねた。もしかすると、自らの手で殺すことができなかったのかも知れない。
そして、理想と共に組織と果てた。少女は、それを受け入れることが出来ない。
「大丈夫。何処にも行かないよ。茜ちゃんを置いて何処かになんて行かないよ、大丈夫」
俺はそう言って、少女の、茜ちゃんの頭を優しく撫でる。
決して、見捨てたりはしない。俺は、家族を失う悲しみをよく知っているから。
それは俺だけではない。涼子も、翔二も同じだ。
そしてそれこそが、俺達が孤児院のようなものをやっている理由だ。
「ほんと…?」
「ああ、ほんと。だから、茜ちゃんも泣いたりしたらだめだよ」
そう言って、こぼれそうになっている涙を人差し指で拭ってあげる。
流れ落ちそうになっている雫は、ほんのりと温かい。そんな温かさが、生きていることを実感させてくれる。
死んだら終わりだ。どんな崇高な理想を持っていようと、どんな大切なものを持っていようとも。
俺は思う。どんなに手を汚してもいい、生き抜いてやる。護りつづけてみせる、この子達をと。
「うん、わかった。あかね泣かないね。だから、ずっといっしょだよね」
茜ちゃんは力一杯笑う。
「ああ、ずっと一緒だ」
そう言って、小さな少女の暖かかな手を俺は握った。
「食料は、あれで一週間くらいは持つかな」
子供達が寝静まった夜、小さな声で涼子が話す。子供達は、汚れた毛布に包まり、静かに寝息を立てている。
「一週間か…。しかし、本当に寒くなったな」
俺も、小さな声で話す。
「もう…冬なんだね」
「そうだな、もう半年だな」
「いろんな事が、あったね…」
俺達は壊れていない、残っていた机の上に腰掛けて話す。
様々な事があった。
死んだ仲間もいる。病気で亡くなった子供もいる。無くしたものも沢山ある。
それでも今は、子供達は笑顔で何とか暮らしている。
いくつかのレジスタンスから誘いを受けた事もある。幹部クラスの椅子を用意するだとかで、条件も悪くは無かった。それでも、俺は即断った。
「俺は、今の子供達の笑顔を護ってやりたい」
そう思ったからだ。
人を殺して、汚い仕事をして金を稼ぐ。
誇れるような生き方ではない。
それでも俺は、生きる為だと割り切っていた。生きる為には何だってやってきた。騙し、騙され、この世界で生き抜くための術を何とか身に付けてきた。
それで、ほんの少しだが子供達の面倒を見るような余裕もできた。
今日まで生き延びてこれたのは、何より自身が『異能者』であることが大きかった。
俺は自身が生き延びるために、『異能力』を使っていた。その時ばかりは、自分が『異能者』であることを嬉しいとまではいかなくとも、『異能力』を持つ人間で良かったと思ったものだ。
今では、自分が『異能力』を持っていることを時折だが、誇りにすら思える。
望んだ、望まないに関わらず、この力のお陰で自分は生き抜いてこれた。そして、子供達を護ってこれたのだ。
今の世の中、生き残るためには『力』が必要なのである。正に弱肉強食、血を血で洗うような時代だ。
こういうのはなんだが、金さえ手に入ればあとは大して困らない。
今の時代、警察も法もありはしない。欲しいものは市が開かれている「地下」にでも潜れば、いくらでも手に入る。勿論、それ相応の金は必要だが。そして、それなりの交渉術、力があれば。
「そうだね、私も護ってあげたい」
涼子は静かに頷いた。
「でも、いつも危ない事をするのは直人ばっかり…」
そう言って、俯く。
「仕方ないだろ、女子供を危険な目に合わせるわけにはいかないだろ。それに…」
そこまで言って、俺は言い淀む。
「私だって、直人と同じ『異能者』なんだよ。なのに…」
涼子は悲しそうな顔をする。
「それに、お前には帰ってくる場所を護っていてもらいたいんだよ」
言って、恥ずかしくなって俺は俯く。
「直人…」
顔を近づけてくる、涼子。
心無しか、頬が赤らんでいる。
「何だか、臭いこと言っちまったな。ははっ」
もたれ掛かってくる涼子。温かい彼女の体は、ドキドキするよりもどこか心を落ち着けてくれる。ふんわりと甘い髪の香りが鼻を擽った。
「直人、私ね時々考えるの」
「ん?」
「何の為に、私達『異能者』はこの世界に生まれたんだろうって」
「それで、どう思うんだ?」
「結局、意味なんてないんじゃないかって。私達『異能者』に関わらず、多くの物事はそれ自体じゃ何も意味をなさないんじゃないかって。それ自体には意味は無い。でもね、私達人間は多くの事に答えを、意味を欲しがるの。どうしてだろう、きっとこうなんじゃないかって…」
「難しい事を言うな、涼子は。さすがは進学校に通っていただけはあるな」
「もう、茶化さないでよ。昔、よく言ってたじゃない直人だって」
「俺が?」
少し驚く、そんな事を俺は言っていたのだろうか。
「なんで自分は『異能者』なんだろう。何の為に、こんな力があるんだろう。そういつも言ってた」
「そうだったかな」
「そうだよ。でもね、私は思うの。直人みたいな人が『異能者』で良かったなって。そのお陰で、子供達も、私も笑顔でいれてるもの。だからね、自分を責めないで欲しいの」
「責めてなんて無いよ」
「嘘」
俺の目を見て話す、涼子。いつもは黒い瞳が、僅かに碧色に輝いている。
彼女は力を使うと、瞳が碧色に輝く。彼女にはその人の『心の色』が見えるらしい。人によって嬉しい色、悲しい色などは微妙に異なるらしいが、見れば雰囲気で分かるという。
「お見通しか、お前には嘘つけないな」
「だって、これが私の力だもの」
そう言って、はにかむ涼子。そして、言葉を繋げる。
「でもこんな力だから、直人の役に立てない。私は一緒に戦えない。いつも嫌な思いをするのは、辛い思いをするのは直人ばっかり。ごめんね」
そう泣きそうな声を出し、抱きついてくる。
「そんなことない、俺はむしろ感謝してる」
涼子の頭を優しく撫でる、すると彼女は目を細めた。瞳が僅かに潤んでいた。
「でも…」
「お前がいてくれるから、俺は安心できる。安心して仕事に行ける。お前がいるから、子供達を任せられる」
「あり…がとね」
涼子の頬に、一筋の涙が伝った。
綺麗だった。涼子の泣き顔を見て、素直にそう思った。
俺は涼子を抱きよせる。
「こちらこそ…」
俺は涼子の耳元で、優しく囁いた。
俺達は、どちらからともなくキスをした。
長い、長い口付けだった。
まるで、最後の別れであるかのように。
「んっ…」
名残惜しそうに、お互いに唇を離す。思わず、声が呟き洩れる。
「行くの…?」
ゆっくりと立ち上がる俺。
机が、ギシリと僅かに軋む。
「ああ、そんな顔するなよ。これが今生の別れってわけじゃないんだ。また、すぐに会えるさ」
「うん、そうだよね」
ぎこちなくだが、笑う涼子。結わえた髪が、僅かに揺れる。
「それじゃ、行ってきます」
そう言って、背を向ける。
「行ってらっしゃい」
俺は声に振り向かず、手だけ振って答えた。
これが、俺の最後の仕事の出発だった。
夜空は、満天の星空を称えていた。
「ん? 別れはすんだんか。しかし、いつまでも待たせよってからに、風邪ひくかと思うたで」
入り口から出て、すぐに話し掛けてくるのは翔二だ。
「別に、別れって程のものじゃないさ」
「生きて帰ってくるからか?」
「当たり前だ、子供達に悲しい思いはさせたくない」
「それと、涼子ちゃんにもやろ?」
「そうだな」
「ちぇっ、いいよなぁ。俺も、あんな健気で可愛い彼女が欲しいわ」
「本州に渡ったら、探せばいいさ。きっと、沢山いるぞ」
俺たちは、歩きながら話す。
「そかな、秋田美人いうのも悪かないよな。な、思わへんか直やん」
「その呼び方やめろ、なんか小学校に戻ったような気分になる」
言いながら、俺は立ち止まる。
「そうかぁ、結構気に入ってるんやけどなぁ。まっ、ええわ直人」
翔二も、同じように立ち止まる。
もう少しで、ターゲットがトップを努める組織に辿り着く。
なかなか大きな組織だ。
別に最後にこんな大きな仕事をする必要は無いのだが、仕事は選べるほど多いわけでも、俺たちは偉くもない。与えられた仕事をこなすだけだった。
もう一度、夜空を見上げる。
「まるで、涙を流しているみたいだな」
「そやな」
相槌を打ってくれる翔二。
いつからだろう、満天の星空を見ても美しいと思うより、悲しいと思うようになったのは。
死んだ人の魂が、夜空で輝いている。そんな気がするからだろうか、夜空が涙を流しているように見えるのは。
「それじゃ、行きますか?」
「そうだな、行くか」
俺たちは涙を流す夜空をしばらく見上げ、そして駆け出した。
夜も明けぬうちに、俺たちの戦いは幕を開けた。