赤い。
赤い。
赤のネガティブは何色だ?
反転していく世界。染まりあがっていく世界。赤く染まっていく世界。血。血。血。
――ほしい。
祐一が紅を放ち、世界が赤く染まる。赤い。また――赤だ。この色は嫌いだ。くりぬかれた大地からもうもうと立ち込める灼熱の吐息が鼻腔をくすぐり、まるで媚薬をかいでいるような錯覚に襲われた。闘いに酔っている自分も嫌いだ。
人を殺している感覚というのは、いつまでたってもしっくりこない。自分の能力、自身に備わった能力を行使し、相手を殺すのだが、それはナイフで直接相手を貫き刺す訳でもなし、どちらかといえば銃で人を撃っているような感覚だ。祐一にとって異能力とはまさに銃。力を行使し、弾丸を発射すれば容易に人間を殺せる。
今まで何人殺してきたかしれない。死者への弔いの気持ちは欠かしたことはないつもりだ。その死者への弔いの数はますます増えていき、果てには最初に殺した人間の名前を思い出そうとして首をかしげることもある。
――戦争をやっているんだ。仕方ないさ。
親友の言葉だ。だが自分はどうしてもそれに手放しで賛同できなかった。倫理が、道徳が、彼を縛った。
だが、自分には守るものがある。他者の命を奪ってでも守りたい命があった。そしてそんな守りたいものがある自分を誇らしいものと思っていた。それなのに――それなのに、目の前が赤くなっている。血に染まっている。守るべきものが、大切なものが赤く染まっている。
幼馴染の少女の姿が、陽炎のように浮かび上がってきた。
きっかけはおそらく水瀬名雪が上月澪と接触したときだろう。彼女の攻撃を受けた名雪は精神を危うく破壊されかけた。それからも治療は続けているが、いまだに完治していなかった。
そして迎えてしまった。名雪の精神が綻んだままに、その日を。
祐一とともに夜の散歩に誘われた名雪。月が綺麗な夜での出来事だった。久しぶりの名雪とのデートに、祐一たちは商店街までいくことになった。
夜の商店街は戦時中とはいえ、やはり賑やかで客引きやら酔っ払いやらネオンの光やらで、かつての20世紀時代の繁栄振りを思わせるような活気だった。
赤、青、黄色。信号のようにきらびやかなネオンが輝く町の隅に赤い花を見つけたときだった。
赤い花は、猫の死体だった。
名雪は無言でそれを眺めていた。くびりごろされた猫の死骸。内臓はきれいさっぱりえぐりとられ、カラスがついばんだのか、ぐちゃぐちゃに刻まれ、その姿は生前をしのぶことはできない。
「猫さん……」
ただ一言そう呟いていた。
だが、祐一はそこに異変を感じ取った。
「誰かが殺したんだ……きっとこれ」
猫の死体をみて、直感的に祐一は思った。これは、これをやったのはまぎれもなく人間である、と。
「どうして……? どうして猫さんを殺すの?」
本当に分からないといった様子で名雪が聞いてくる。名雪は猫が大好きだ。愛玩の対象である猫を殺すなんて信じられないのだ。祐一はそんな名雪が好きだった。
「いこうぜ名雪……」
これ以上幼馴染にこんなものを見せたくなかった。行こうとしたそのときだ。
目の前に、少女がいた。
10歳ばかりになるだろうか。リボンをつけた少女は光のともらない瞳を、ただじっとまっすぐ猫の死体に向けている。
「……? お嬢ちゃん、どうしたんだ? こんな時間に一人で……?」
祐一がそう尋ねても、少女は首一つ動かさなかった。ただ一言、呟いた。
「わたしの……猫さん……」
「お名前、なんていうの?」
名雪と祐一と少女の三人で夜の商店街を歩く。
「お家はどこ?」
何を言っても答えない。
このご時世、孤児など当たり前のようにいる。この少女も孤児なのかもしれない、祐一はそう思った。
「猫さん好き?」
唐突に名雪が笑顔で切り出した。
「……」
少女の顔がゆっくりと名雪の方を向いた。始めて、名雪と少女は対面した。
「……猫さん……」
少女がポツリと呟き、また歩き出した。
ぱたっ
止まった。
少女が物陰の一角を凝視している。名雪も祐一も突然立ち止まった少女にあわてて立ち止まる。
「どうしたの?」
名雪が尋ねると、
「……おいで……」
少女がなにか手招きをするような仕草をする。すると物陰から一匹の猫がでてきた。まだ小さな子猫だった。
「あの猫さんの……子供……」
少女がまたポツリ、ポツリと。無表情の光のともらぬ瞳で。
「まだ生きていたの」
その一言とともに風が吹いた。祐一たちにまとわりつく風に血の匂いが混じっていることを感じ、本能的に祐一が身構える。呆然としたままの名雪に、血がかぶさる。
風を起こしたのは少女だった。少女の手には猫。さっきまで猫だったものをかかえている。腹をえぐられて死んだ猫の骸を抱えて。
その死骸にナイフが食い込み始める。えぐっている。猫の死体をえぐっている。少女が、まだあどけない少女が猫の内臓をえぐっている。飛び散る内臓。飛び散る血。
「おいやめろ!」
祐一の制止の声を聞かず、まだひたすら、ひたすら猫の内臓をくりぬき始める少女。
「やめろ!!」
ピチャ、ピチャっと、少女の手、顔にまで盛大に血が飛び散る。返り血をあびてもなお少女は無表情のままだった。祐一が少女の肩に手をかけ静止しようとしたとき――
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
少女が絶叫した。少女から発生したかまいたちが祐一を襲う。とっさに展開した異能力のバリア――精神バリアーでなんとか防御するも、胸を軽くえぐられ、風に煽られて血が飛び散る。
ピチャピチャピチャ
さっきから呆然とその光景を眺めている名雪に、また血が降りかかった。
赤く、赤く染まっていく名雪。猫の血に、祐一の血に。
「やめてぇぇ! やめてぇぇぇ! 助けておかあさぁぁん!! やめておとうさぁぁん!!」
ぶるぶると頭を振って、泣き叫ぶ少女。また風が発生し、鋭利な刃物を作り上げる。その矛先は血を浴びて呆然と立っている名雪。
「名雪! 逃げろ!」
祐一の叫びもむなしく、名雪をかまいたちが襲う。
名雪はよけようともしなかった。ただ呆然と突っ立ったまま、ようやくそれを認識すると、手でなでるようにそれを受け止めた。手から飛び散る鮮血。名雪は手だけでかまいたちをかき消した。
「な、名雪……?」
祐一ですら防御し切れなかったかまいたちを手だけでかき消したのだ。
名雪が少女に近づく。少女と同じくらい無表情に。
「猫さん……」
少女からナイフを取り上げ、抱きしめる。
「あっ……」
名雪の抱擁を受け、ようやく泣き止んだ少女。力強く握り締められた少女。その背中には、
月夜に栄えるナイフ。
一瞬だった。ナイフが少女の左肩を貫いたのだ。
「きゃぁぁぁぁぁあ!!」
少女が絶叫する。名雪は今度は右の肩を貫こうと、ナイフを振り上げる。
「やめろっ!」
わけもわからず祐一は名雪を蹴り飛ばした。さきほどから異常だ。少女と会ったときから……なにか、なにかがおかしすぎる。異常すぎる。
いきなり小さな女の子が猫を殺して、その猫を殺した少女を名雪が殺そうとする。これだけ。わけが分からない。どうしてそうなるんだ。
「がぁ……っ」
蹴り飛ばされ、地面に突っ伏してうめく名雪。よろよろと立ち上がる。その瞳には先ほどの少女と同じように何も光を宿していない。だがその顔は、ひどくゆがんでいた。
「キ……ィ……」
名雪が零れ落ちる幾多の血を呆然と眺めている。血がぽたぽた。手からもぽたぽた。名雪の体からぽたぽたと血がたれおち、地面を染めていく。
「ユウイチの……血……」
ペロリと、顔にかかった血を血でぬれた手で触り、それを舐めて言った。血まみれの名雪は、ゆっくりとこっちに向かってくる。ナイフを携えて。
「名雪! どうしたんだ名雪!」
祐一が名雪を叱咤するも、名雪はまったく反応を示さない。距離が縮まる。どんどん縮まる。そしてネオンに照らされた二人の影が合わさった。何かをプレゼントするように手を差し出す名雪。握られているのはナイフ。逃げないと、でも体が動かない――。
「!」
サシュッ
ようやく体が動くも、よけきれずに祐一の腕をナイフがかする。その部分に血の筋が走る。祐一はその事実に戦慄した。精神バリアーを展開していたというのにもかかわらずである。精神バリアーは物理の攻撃を一切通さない。だが、名雪のナイフはそれを通したのだ。異能力をこめた攻撃ならば精神バリアーを突破できるだろうが、まさか名雪が祐一の精神バリアーを突き破るほどの力をもっているとは思ってもいなかった。
やばい、やられる。
「名雪!」
祐一から真紅の黄昏(クリムゾン・トワイラント)が放たれ、名雪を赤に染め上げる。
目くらまし用に放った紅で、時間を稼いだ祐一は肩を負傷して気絶している少女を担いでその場から去ろうとした。逃げ惑う人々の悲鳴が聞こえる。すぐにその声はやみ、静寂が訪れる。この時代、異能者同士の喧嘩に野次馬など集まるわけがない。だが、
タッタッタッ
ナイフを構え、もうぜんと走り迫ってくる名雪の姿が後ろにあった。
「あぁぁぁあぁぁアァァァァァァァァァァァァ!!」
咆哮とともにナイフを突き立てる名雪。また精神バリアーを展開して、名雪の利き腕である右に旋回して、カウンターの蹴りを当て、とりあえずは昏睡させようとした。だが、
パシィィン!
名雪の展開した精神バリアーに簡単に蹴りが弾き返され、祐一が大きくよろめく。そのスキを名雪は見逃さなかった。
獣めいた雄たけびをあげ、跳躍し、斬りかかる名雪。避けられない。名雪の手で踊るナイフ。
ドスッ
祐一の胸にナイフが突き刺さった。
「ぐっ……!」
名雪がナイフをぐりぐりとかきまわし、傷口をえぐる。そのたびに血が大量に飛び散り、名雪をさらに赤に染めていく。
「ユウイチノ血、ユウイチノ血……ユウイ血ィィィ!」
信じられなかった。名雪が、いきなり襲い掛かってくるなんて。
いままで守ろうとしてきたもの。それに命を奪われようとしている。信じられない。信じたくない話だった。
名雪が祐一を殺そうとしている。七年間一緒だったのになんでこんなことになっているのか。ただ散歩してただけじゃないのか? ただ女の子と会っただけじゃないのか? ただ猫の死体を見ただけじゃないのか?
意識が遠のき始める。祐一の目の前が赤に染まっていこうとする中、祐一は獣の咆哮を聞いた。
グォォォォォォォォォン!!
目の前に赤い女がいた。赤い化粧を全身にまとい、月の光を浴びてさらにその美しさと艶かしさを強調している女がいる。なんて扇情的、精神が高ぶっていく。まるで全身が性器になった気分だ。獣は絶頂を味わうため、赤い女に跳躍した。
さぁ殺しあおうぜ名雪。
命の犯し合いが始まった。獣が女に右かけに爪を下ろし、その肌を紅に染め上げる。女がよろめくと、次は左かけに爪を振り下ろした。だがそれは宙をきり、女が跳躍して、獣の喉を切り裂いた。
飲まれそうなくらいの快感の波が押し寄せてきた。
女も獣も互いに、吼えながら互いを赤に染め上げていく。獣の血が女に降りかかり、女をさらに犯していく。女の全身はもう真っ赤だ。もっと、もっと汚したい。犯したい。やり足りない。
獣が女の服を裂いた。服の間から覗かれる白い肌。それがさらに獣を扇情した。獣は女を爪で押さえつけ、服をむしりとった。露になる女の白い肌。女は抵抗しなかった。赤と白。なんて美しいコントラストなのだろう。獣は女を無心でむさぼった。犯した。女もそれに応じた。獣の血が女に降りかかる。女が獣の胸を貫いたのだ。白が赤に染まっていく。犯されていく女。犯されていく自分。獣が舌を出して、女の赤を舐めあげていく。糸をまとった女の体が月夜に輝く。すると女も獣の赤を舐めだし始めた。互いに犯していく獣と女。血を出す。舐める。また出す。舐める。かかる。いつまでたっても止まらない。まったく底がなかった。女を犯して、犯して、犯しまくって、それでもまだ足りない。女もまだ足りないのか、ナイフで獣の血を取り出し、さらに舐め続ける。獣のにおいと血のにおいが充満する。それがさらに獣と女を上り上げていく。獣は男となった。女はそれに応じた。
互いが互いの名を叫び、二人は絶頂を迎えた。
すでに少女の姿はどこにもなかった。風のように少女は消えていた。だが風は運ぶのだ。血の匂いという名の紅の色香を。